歴史散歩

姫塚伝説 ~解説~

著者/谷村径夫 プロフィール

一九六四年 青森県七戸町生まれ。
一九九〇年 上智大学大学院理工学研究科博士前期課程修了。
著書に「跳躍」(文芸社)他がある。神奈川県茅ヶ崎市在住。

ごあいさつ

 幼い頃、私は朝夕に柏葉城址を通って、小学校へ通っていました。
 私が生まれたのは、そこから北の杉林に囲まれた小高い丘でした。思い返すに、その辺りは昔、文字通り柏の葉の如く、お城の広がっていた場所でした。
 夏の日の夕暮れに、畑仕事を終えた祖父母とともに姫塚の前に立ち、無心で手を合わせたことを、私は鮮明に覚えています。
姫塚は、柏葉公園(柏葉城の本丸跡)の裏手にあるお堀の端にひっそりと佇んでいます。ここに伝わるお姫様の悲恋は、多く口承によるものですが、それは感傷的なものではなく、また神的なものでもないようです。ただ、不幸な最期を遂げたお姫様がいらした、ということだけがこの地に語り継がれています。
 このたび「姫塚伝説」を上梓するにあたり、私は姫塚に対する心の中の想いを小説という形式にのせました。この物語は、私にとって幼い日の夕暮れにみた、心のうちの神秘的な情景そのものです。

「姫塚伝説」を題材とした七戸秋祭り山車

「姫塚伝説」を題材とした七戸秋祭り山車

史跡 【七戸城跡の解説】

  • 七戸南部氏と七戸城について
  • 史跡七戸城跡の歴史と特徴
  • 『七戸城跡散策マップ』

七戸南部氏と七戸城について

1 鎌倉時代

 文治五年(一一八九)に南部の始祖南部光行が山梨県南部町から糠部五郡(現在の南部地方)をいただいたと言われている。
 建久二年(一一九一)に光行の四番目の子どもの七戸太郎三郎朝清が七戸領主となったのが数年後の正治元年(一一九九)と言われている。
 この朝清は、七戸氏および久慈氏の先祖となると伝えられている。 また、朝清系の七戸氏が「七戸氏」を名乗る最初の人であることから、この朝清が第一期の七戸氏と呼ばれている。
 第一期の七戸氏の七戸地方、広くは糠部地方における事跡などについてはほとんどわかっていない。
 鎌倉時代末期には、七戸地方には地頭(代)と呼ばれる治安維持と租税の徴収にあたった人として工藤氏がいた。そしてめまぐるしい変遷の後、七戸は南部政長の領地となり、やがて七戸第二期の七戸政光の七戸氏に引き継がれていくことになる。

2 南北朝時代

 南部氏が糠部地方の一部の支配者として、その名がはっきりと史料の上に出てくるのは建武二年(一三三五)に、南部六郎政長である。
南部政長は、元弘三年(一三三三)新田義貞の軍に従い鎌倉を攻撃し、功績をあげた。その功績によって建武元年(一三三四)五月三日、後醍醐天皇から甲州倉見山(現在の山梨県都留市)を拝領した。
 後醍醐天皇は、元弘三年十月、北畠親房の後見(代理)のもと、その子顕家を陸奥守に任じ、第八代皇子義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて奥州に下った。
 この時、甲州波木井の地頭だった波木井南部四世の師行を供奉して陸奥の国府多賀(仙台市)に着き、選ばれて「国代」すなわち国司である顕家の代官のひとりに任じられた。
 師行は北奥糠部と津軽の担当となり、北奥統治の拠点として糠部郡の八戸を選び、根城を築城したと言われている。
 波木井南部四世指師行が糠部に下がってきてから、この南部氏(以下根城南部氏という)は、五世政長、六世信政、七世信光、八世政光と五代にわたって南朝のために忠節を尽くし、後世、南部五世の「勤皇の南部五世」と讃えられた。

 根城南部第八世政光(七戸城の築城者)
 政光は六世信政の二男、七世信光の弟で、七戸城を本格的に築城して、街道や寺院の創建なども手がけた。
祖父政長から母親を通して七戸を配分され、七戸城を新たに築城、在城し、病弱な根城城主であった兄信光とともに糠部の治安維持に努めた。
 兄信光が治めている甲斐の波木井に帰ってからの糠部・津軽の管理は政光を波木井に呼び天授二年(一三七六)政光に家督を譲った。
元中九年(一三九二)閏十月五日、南朝の後亀山に天皇が皇位を北朝の後小松天皇に伝え、南北両朝が合体となったので、政光は明徳四年(一三九三)の春に甲斐を退き、奥州に下り、根城に移り住んだ。
 晩年は八戸市にある根城を兄信光の長男長経に譲り、政光は七戸に移り大規模な土木工事に着手したと考えられている。
 まず南部氏の連絡路でもあった街道の整備を手始めに、街道の通りには見町観音堂(県指定文化財)や小田子不動堂といった寺院を配し、さらには七戸城の普請と築城も大々的に行われた。
 そしてその七戸城と城下町は実の子孫三郎政慶に委ねられたのである。

3 室町時代

 この時代の七戸城の歴史はほとんど知られていない。後世に書かれた「東北太平記」などによると、康正二年(一四五六)田名部の蠣崎蔵人の乱によって七戸城が落城したと記されている。さらに文明十五年(一四八三)三戸南部のお家騒動でも七戸城が落城したとされている。
 しかし、平成三年からの発掘調査の成果を見る限りにおいては、落城したという痕跡は確認できていない。

4 戦国時代

(1) 戦国末期の南部氏
 天正元年(一五七三)室町幕府は滅び、豊臣秀吉が天下統一の大業に着手しはじめる天正十年(一五八二)六月より約五ケ月前、南部では、田子城主である南部亀九郎信直が迎えられて三戸城に入り、三戸南部氏の大守となった。しかし信直の大守就任を不服に思う南部家の有力武将もいた。
 その中でもとくに九戸政実、七戸城主の七戸家国、久慈政則らがもっとも不服に思っていた。
その不服はやがて、「九戸政実の乱」へと発展し、繋がっていくことになる。

(2) 奥州仕置き
 天正十八年七月(一五九〇)、小田原城を攻略した秀吉は日本統一のための最後の仕上げとして、奥州討伐の大軍を発し、宇都宮に至り、やがて会津(福島県)に進駐した。 奥州の豪族の中には切取勝手(武力による略奪)の中世という時代は、まさに終焉を迎えようとしていた。しかしそのような時代にあることを感じ取れない武将もいた。なかでも葛西、大崎、和賀、稗貫の諸氏は十月五日に浅野長政が帰途に着くや、その手薄を見て、一揆を起こした。冬に入り、豊臣方の陣の引き上げが続くと、豊臣軍に対して恐るるに足らずと見て、一揆はさらに拡大、翌十九年(一五九一)正月には九戸政実までもが反旗を翻した。
 三月十三日、九戸政実は一気に行動を起こし、七戸家国は津村伝右衛門の居城である伝法寺城(十和田市に所在)を攻撃したが、失敗に終わった。
 しかし、これらの失敗にもかかわらず、九戸政実軍の勢力は増大し、七戸周辺の地史の多くは、九戸軍の有力者七戸家国に味方した。
一方、蒲生氏郷と伊達政宗は葛西・大崎の一揆の鎮圧を豊臣秀吉から命令され、六月、伊達政宗はこれらを鎮圧することに成功した。
このような情勢の変化によって、はじめは九戸政実についた武将も、徐々に三戸南部信直方に寝返る者もでてきた。葛西・大崎一揆を鎮圧した征伐軍はさらに和賀・稗貫を討ち、いよいよ九戸軍の征伐に進軍してきた。
 八月二十三日、豊臣軍と九戸軍の戦闘は征伐軍の姉帯城攻撃からはじまった。
 九月一日には、九戸城を秀吉軍十万で攻めた。勝敗はわかっていたが、それでも数日間の間持ちこたえた。冬の到来、兵糧難、無駄な兵員の消耗を考慮した征討軍は、軍議の結果、九戸政実に勧告をすることとし、その使者として九戸政実の菩提寺である長興寺の住職をたてた。
その勧告状の趣旨は「速やかに降伏すれば、天下に対し逆心のないことを京都に伝え、一門の命を助け、領地をそのままにするように考えてやろう」というものであった。 九戸政実はその降伏状に従い、天正十九年九月四日、降伏して征伐軍の陣中に降った。
 しかし、いったん開城すると、講和の条件は無視され、城の中にいたものは全員殺され、この時、浅野長政が生け捕った幹部の妻子もすべて処刑された。ただ七戸家国の妻子だけは特別に命を助けられた。それは、七戸家国の妻子が信直方として抜群の働きをした根城南部八戸政栄の娘であったからである。

(3)七戸城の落城
 この「九戸政実の乱」の時、七戸城にはわずかな守備兵は居たと考えられるが、ほとんど空城に等しかったと考えられる。
 この隙をついて上杉影勝が七戸城を襲い落城させたと伝えられている。七戸城の南側には作田川と和田川は七戸城の外堀の役割も持っていたと考えられ、その川を挟んだ館野地区に陣城のようなものを築いて、上杉勢が陣を構えていたのではないかとも考えられている。
 また、七戸城の北東側には、矢館跡という出城があったが、ここでも畝堀と呼ばれる防御用の堀から鏑矢や鉄槍などが出土しており、激しい激戦の様子が見えてくる。

5 江戸時代

 天正十九年の九戸政実の乱で七戸城は落城し、これに組した七戸家国と、その配下の武将たちは滅び、翌年には南部領内にあった四十八の城は、十二城だけが残され、三十六の城は廃城とされた。
 七戸城も廃城とされ、七戸地方は南部藩主信直の直轄地とされ、その代官として横浜左近が置かれた。その期間は大変短いものであった。
 その後まもなく、七戸には、九戸の乱の時に信直の側として働いた浅水城主の弟直勝が選ばれた。
 第三期の七戸氏の誕生となる。
 ※今まで七戸城跡というと、この江戸時代に使われた本城部分(現在は柏葉公園として利用されている)だけが七戸城跡であると誤解していた人が多くいたように思う。

(1)七戸隼人正直時
 慶長二年(一五九三)その長男の直時が正式に七戸城主に任じられ、七戸隼人正直時と称し、二千石を賜った。
 直時の治安は、慶長二年から、正保四年(一六四七)二月に亡くなるまでの五十年の長きにおよんだ。しかしその勤務の大半は、七戸城主としてよりも、南部藩の高い身分の家老としてのものであった。そのため、直時が家老として盛岡へ出仕えが多かったようで、七戸は直時の伯父七戸縫殿助直次が城代役となって七戸地方の治安維持にあてっていたものと考えられている。
 直時は大阪の陣などにも出陣し、また寛永二十年(一六四三)には、閉伊郡山田浦に漂着したオランダ人を捕らえ、江戸幕府から誉められたりもした。
 直時は正保四年(一六四七)に盛岡で死亡したが、その遺骸は七戸に運ばれ、瑞龍寺の南部御霊屋に葬られている。

(2)七戸隼人正重信
 直時の死後、南部二十七世利直の五男の重信が後を継ぎ、十八年間に渡って七戸を治めた。
 重信は、元和二年(一六一六)五月十五日生まれで、正保四年、七戸城主となった時は三十二歳であった。重信は南部の歴代藩主の中でも名君の誉れが高い人であったと伝えられてはいるが、その業績についての史料は極めて少ない。
 寛文四年(一六六四)には南部藩第二十九世に抜擢され盛岡藩主となった。
 重信が盛岡に移った後、七戸氏を名乗った者は何人かいたが、いずれも七戸とは無縁の人で、七戸地方の人が七戸城主としていただく七戸南部家は重信以後存在しなかった。

(3)代官政治のはじまり
 七戸隼人正重信が盛岡藩主となった後、重信の領地であった七戸地方は、盛岡南部藩の直轄地となり、代官が置かれた。その代官所は明治二年(一八六九)まで行われ、一貫した代官政治が行われた。
 重信が盛岡藩主となった、同じ年に七戸に代官所が設置された。この時、野辺地にも田名部にも代官所が置かれ、翌年の寛文五年(一六六五)から野辺地忠左衛門、藤村源兵衛が七戸の代官となり、野辺地の代官も兼ねていた。
 七戸代官が野辺地代官を兼ねる方式がしばらく続いたが、元禄四年(一六九一)から野辺地通りが設けられ、独立の代官が置かれたため廃止された。そして野辺地忠左衛門が七戸代官に専念することになり、七戸在住の西野八左衛門が盛岡支配に置かれ、野辺地代官の職に着いた。
代官は二年任期で二人任命され、半年交代で勤めるのが慣わしであったが、江戸時代後期にはいつのまにか三年前後となり、文化四年(一八〇七)以後はとくに定めなくなる。
 代官に任じられる人は、原則として純粋の南部士に限られていたが、はじめの頃は七戸給人が七戸代官に任じられることもあった。
 ※『姫塚伝説』の中で「現在、柏葉城址七戸代官所跡北西の谷あいに、姫塚がある。」としているが、町教育委員会では、文献史料を調査した限りにおいて「柏葉城址」という固有名詞は散見されない。また、文化庁で指定している文化財名称が「七戸城跡」であることから、少なくとも町教委は七戸城跡と呼ぶようにしている。

史跡七戸城跡の歴史と特徴

1 歴史

 七戸城跡は昭和十六年十二年十三日に国の史跡に指定される。
 七戸南部氏の居城で文献史料になどによると、鎌倉時代や南北朝時代にはすでにあったとされていた。しかし平成三年度から平成十五年度までの、北館地区発掘調査の成果を見る限りにおいては、築城された年代は室町時代初期と考えられる。
 室町時代初期に七戸城の築城を行った人物は、青森県八戸市にある根城南部第八世城主の南部政光である。
 なぜ政光が、七戸に新たに七戸城を築城したかは、今までほとんど語られることはなかった。しかし、最近の研究から考えられてきていることは、政光はもともと兄(信光)の城を継いだだけで、ゆくゆくは兄(信光)の長男(長経)に譲らなければならないことが目に見えていたことから、政光の子供に城を譲ることはできない。そのような状況の時、南部氏の宿敵である安藤氏の不穏な動きもあったことを理由に、七戸城を新たに築いたのではないかと考えられている。
 七戸城は南部氏の居城の中でも最北に位置している。それはすなわち南部氏と宿敵関係にあった安藤氏の居城に対する、北方の最前線拠点の役割を担っていたことになる。そのことを大儀として、政光が七戸城を築城したと考えることができる。
 以上のようなことから、室町時代の初期においては、七戸南部氏は、三戸南部、根城南部と肩を並べる立場にあったと言える。私はこの時代を「南部の御三家」として光輝いていた時代であったと言うことができると考えている。
 しかし戦国時代末の天正十九年(一五九一)には九戸政実の乱において、悲惨な最期を迎えることとなった。

2 城の特徴

 七戸城跡は自然の地形を巧みに利用しながら、巨大な空堀が台地を掘り切って多数の曲輪が作りだされている。このような築城技法は北奥羽の南部氏中世城館跡の築城技法の大きな特徴である。
 目を見張るのは、城の規模は国指定面積が十七ヘクタールであり、未指定部分を含めると約二十五ヘクタールと、城の規模は南部氏の城館跡の中でも最大規模のものと言うことができる。

(1)必見ポイント1 「本丸」(自然地形模型)
 本丸の伝承地は七戸城の大きな台地の先端にある。
 本丸はどの城でも一番防御の堅いところに設定されるが、この七戸城も二ノ丸の角にあり、防御は固い。この本丸はいまだに発掘調査が行われていないので、不明な点も多いが、研究者によっては、ここが中世の時代においても中心ではないかと考える人もいる。
 ただ。はっきりとしていることは、江戸時代に入り、盛岡藩直轄の代官所が置かれていた場所である。代官所の時の名残として、周辺に土塁なども巡らせられている。 
 現在、本丸・二の丸は.柏葉公園.として町民の憩いの場として利用されている。

(2)必見ポイント2 「北館」(北館建物配置模型)
 本丸の西に位置する場所にあり、当初は重臣の曲輪と考えられていたが、長期の発掘調査の結果、室町・戦国時代においては七戸城の中心部であったことが明らかとなった。
 戦国期においては、主殿・常御殿・奥御殿・宝物殿・厩・作業小屋などの建物があったことも明らかとなった。
 さらに曲輪の中央部は祭りや儀礼の空間として設けられていることも明らかとなった。

(3)必見ポイント3 「堀跡の花菖蒲園」
 北館曲輪の北側、貝ノ口地区の南側の間にある空堀跡には、現在1万本の花菖蒲が植栽されている。六月下旬から七月上旬にかけて赤や紫、白色の花菖蒲が咲き乱れ、見る人の心を楽しませてくれる。

(4)必見ポイント4 「宝泉館跡のつつじ園」
 大手虎口から入り、五十メートル進んだ左手の曲輪が「宝泉館跡」である。ここ には仮整備ながら、樹齢百年以上の山つつじの巨木が百本植栽されている。
 5月中旬から下旬にかけて鮮やかな赤色の花が咲き乱れる観光スポットである。(執筆者 生涯学習課 小山彦逸)

七戸城跡散策マップの見方

 七戸城跡散策マップは、七戸城跡を散策する際に参考となるように作成されています。
 特に、車を置く駐車場をはじめ、公衆トイレなども示しています。
 春のツツジをはじめ、初夏の花菖蒲、秋の栗の巨木など、城跡を満喫するだけではなく、草花の見所を掲載しています。
 年表もあり、七戸城の歴史も楽しむことができます。

七戸城跡散策マップクリックすると拡大します

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