歴史散歩

姫塚伝説 ~その2~

 皐月二十一日、小満。
 寅の刻(午前四時頃)、辰之丞は出立(しゅったつ)した。辺りは漆黒(しっこく)の闇であった。
 作田川の木橋を渡り、西へと山を目指した。半刻で西野(せいの)部落に至り、それから街道は一つになった。――山舘部落は、街から四里程のところにあった。辰之丞は早暁、部落に入り、大きな茅葺(かやぶき)の家に訪いを入れた。静寂(しじま)の中で郭公(かっこう)が鳴いていた。
 左右吉は、既に支度を整えていた。日に焼けて、百姓らしい頑丈な体躯(たいく)をもち、年恰好は辰之丞より十(とお) は上だった。
 「参りましょう。」左右吉は低い声で云った。
 二人は、朝陽を浴びて、鬱然とした山へと足を踏み入れた。
 藪を脇に見ながらしばらく歩くと、傾斜は次第にきつくなり、深閑とした森が現れた。その木々は、まるで辰之丞を見詰めているかのようであった。
 「これから先は、国の者でも迷うことがあります。はぐれずについてきて下され。」左右吉は草を踏んで進んだ。道と云う道はなく、木々の間を縫うように二人は登った。
 半刻程登ったであろうか。視界が開け、小高い草原に出た。
 「ここが馬立場でございます。少し休みましょう。」
 二人は、藺笠(いがさ)を外して叢(くさむら)に座った。陽は昇り、山茱萸(さんしゅゆ)が緑白色(りょくはくしょく)の小花をつけていた。その枝の隙間から、遠く城下を眺望した。
 「遠くに見えるのは海でしょうか?」
 「左様でございます。」
 「それから、海の手前に見える大きな沼は?」
 「小川原沼(こがわらぬま )でございます。ご領地で一番に大きな沼でございます。」
 「何が獲れますか?」
 「鯉(こい)や鰻(うなぎ)がよく獲れますが、寒鮒(かんぶな)が殊の外美味でございます。」
 (あの沼で獲れる魚は、果たしてお城に上げられるのだろうか?)と、辰之丞は思いを巡らせた。
 「この先はブナ林になります。ここから山の神まで一息に登ります。」左右吉が力強く云った。
 「では参りましょう。」
 二人はブナ林へと入っていった。
 「山の神までどれくらいでしょう?」
 「一刻許(ばか)りでございます。」
 ――二人は更に登った。
 辰之丞は汗を掻き、次第に体が火照るのを覚えた。ブナの木々の葉を透いた陽射しが、時間の経過を教えていた・・・・・・笹藪を掻き分けて行くと、やがて道は平坦になり、突然目の前が開け、祠(ほこら)が現れた。
 山の神は左右を白樺の幹に囲まれ、右手前にはその巨木が茂っていた。
 左右吉がぽつりと云った。
 「昔はこの山を雄嶽(おだけ)と申しました。」
 「雄嶽――誉田別尊(ほむたわけのみこと)が祀られていると聞きましたが・・・・・・」
 「後醍醐天皇の御代(みしろ)のことでございます。ある日突然、東南から一条の霊光がたなびき、しばらくその光は消えることはありませんでした。これを見た西野(せいの)部落の孫左衛門(まござえもん)という猛者(もさ)が斎戒沐浴(さいかいもくよく)し、ここに登りました。そして光を追っていくと、この白樺の幹に辿り着き、幹の中に神摘(しんちゃく)を見つけ、それを家に持ち帰りました。やがて、十五の子供だった孫四郎に、『我は八幡大神である。我を雄嶽に奉祀すれば国家泰平五穀成就疑いなし』という御託宣があり、ここに祀ったのでございます。」
 「国家泰平五穀成就・・・・・・」
 (南部の地は礦?  (こうかく)の広漠とした 山野だ。どうかこの地に恵みを、そしてお稲様の安寧を)
 辰之丞は柏手を打ち、山の神に祈った。
 それから尚も二人は登った。森の様は次第に変わり、ダケカンバとミヤマナラが混生していた。その蒼蒼(そうそう)たる木立を抜けると、空が開けた。八幡岳頂上に立つと、断崖絶壁に椴松(とどまつ)が這い、稚児車(ちんぐるま)が風にひっそりと揺れていた。そして、残雪を頂いた八甲田の峰が少し霞んで、眼前に迫っていた。八甲田は美しかった。その美しさには、人を寄せ付けない強さがあった。
 「手前が雛岳(ひなだけ)、その奥の形のよい険阻(けんそ)な山が高田大岳、右が赤倉岳・・・・・・中央の火口を開いた、一際高い山が八甲田大岳でございます。」
 「壮観です。北に海が見えますが・・・・・・」
 「あの地は野辺地より先の南部の御領地でございます。しかし戦(いくさ)が相次いでいるようでございます。」
 「抜ける道はありますか?」
 「雛岳の裾野に見える広い草原が田代平(たしろたいでございます。夏場ならば田代平に辿り着き、更に、南の湖に抜けることは出来ます。――しかし、北に抜けた者はありますまい。」
 眼前の山々が一層峻厳に見えた。
 (やはり、八甲田から津軽に抜けることは出来ない。津軽へと至るためには、前門となる野辺地を通るしかない。)辰之丞は田代平の新緑を眺めながら、津軽の地へと赴くべき術について思案した。
 ――八幡岳を降り、山舘に着いたのは未の刻(午後二時頃)だった。左右吉は、辰之丞に山舘の家で一休みしていくように促した。
辰之丞は、志乃の持たせてくれた干飯(ほしいい)を食べたきりだったので、流石に腹が減っていた。上がり框(かまち)に座ると、左右吉の内儀が握り飯をもって来た。「辰之丞様、申の刻(午後四時頃)に左組部落から舟が出ます。作田川を下り、半刻許りで街(まち)に着きます。よろしければ舟にお乗りくださいれ 。」左右吉が辰之丞の疲れを慮(おもんぱか)るように云った。
 「かたじけない。よろしく頼みます。」辰之丞はそれ程疲れてはいなかったが、桂節の言葉を思い出した・・・・・・・この機会に、作田川の流れから、領内の田の様子を見て置きたかった。
 「従姉妹の小鶴(こつる) がご一緒させていただきます。小鶴(こつる) は髪結いをしている者ですが、決して怪しいものではございません。」 左右吉の内儀の言葉に辰之丞は恐縮して頷いた。

 左組部落までは左右吉が送ってくれた――部落には山が迫っており、畑の中に時折古びた家々が見受けられた。部落の東端の小さな坂を降りると、粗末な木橋の袂に舟付き場があった。小さな川原がまるで設えたかのように岸から突き出、小鶴と思われる華奢な女が、こちらを向いて礼をした。
 辰之丞は「よろしく頼みます。」と水夫(かこ)に告げ、舳先(へさき)に座した。舟が出た。岸辺から左右吉が大きく手を振った。辰之丞は立ち上がり、手を振り返した。やがて、舟は流れに従って速度を増し、左右吉の姿が小さくなった。
 舟は左右に田を見ながら、悠々(ゆうゆう)と下って行った。作田川は山あいの森の隙間を縫うように流れている。川沿いには幾つかの部落があり、稲穂の揃った青い田が時折見渡せた。辰之丞は、青い稲に安堵を覚えた。舟はゆっくりと流れ、次第に下流が開けてきた。
 辰之丞は街の方角に眼を移した、その時、後ろから声がした。
 「――小鶴と申します。お武家様、南町のお方と伺いましたが・・・・・・」
 「山平の杜氏、徳蔵の弟辰之丞と申します。今日は、八幡岳に登った帰りでございます。」
 「左様でございますか。兄上の徳蔵様は夫が存じ上げております。」
 「それは奇遇に存じます。左右吉殿から、髪結いをなされていると聞きましたが・・・・・・」
 「はい。川向(かわむかい)に夫と暮らしております。」
 (小鶴には自分に似た訛りがある・・・・・・)辰之丞はふと思った。
 「旦那様は?」
 「名を嘉平(かへい)と申します。明徳館という城下の道場で剣術を指南しております。」
 「剣術を・・・・・・拙者は、只今漆原桂節先生の塾に通っております。」
 「嘉平も桂節先生に学んだようでございます。」

 やがて舟は作田部落を抜け、左手の高台に南外郭が望まれた。
 「ここからはお城がよく見えます。お城は森森(しんしん)とした木立を背にしているようです。」
 ――辰之丞は続けた。
 「拙者は幼い時分、南町におりましたが、随分長い間この地を離れておりました。・・・・・・その頃、兄の徳蔵と釣りに出掛け、あの森へ迷い入ったことがあります。」
 「左様でございますか・・・・・・」
 「――ご新造様、お城へ登ったことはありますでしょうか?・・・・・・」
 小鶴は黙った・・・・・・
 時は静かに流れ、田の向こうに腰曲輪が望まれた。街は近かった。
 「わたくしは、お城で姫様の髪を結っております。」小鶴は卒然と云った。

 舟は、朝方、辰之丞が渡った木橋をくぐり、やがて和田川と合流した。川は水量を増し、滔々(とうとう)と流れ、間もなく左岸に材木屋や商家の大きな蔵が見えて来た。それは既に街に入ったことを意味していた。

 ――田は途切れ、舳先に切られる水の音をただ聞くのみである。
 「橋の袂にお付けします。」水夫が云った。
 舟はゆっくりと岸に近づいた。辰之丞は小鶴の手をとって、川原に下りた。水夫は舟を沖に出し、上流に切り替えした。辺りは少し昏(くら)く、程なく酉の刻(午後六時頃)かと思われた。
 川原から橋まで登り、そこで二人は別れた。別れ際に小鶴が云った。
 「徳蔵様によろしくお伝えくださいまし。」

姫塚伝説~二~

 明くる朝、辰之丞は西外郭の森に立った。枝葉を透(とお)って陽光が暖かく差して来る。皐月の野に花菖蒲が美しく咲いていた。辺りを見渡して、北に広がる緑野(りょくや)を歩いた。花菖蒲は紫の花をつけ、遠山(とおやま)を横切って、端を青陽(せいよう)に吸われた。
 ――花冷えの野の縁(へり)に、杉木立が鬱蒼と茂っている。
 (この木立を先へと抜ければ一体何処へ至るのだろう?貝ノ口郭(かいのくちかく)だろうか・・・・・・更に行けば、天間館郭(てんまだてかく)か?)辰之丞は、杉木立を前にして、昨日の八幡岳行を頭の中に描いた。

 懐から龍笛を手に取り、奏でると、その調べは花や木を伝って響いて行った。
 ・・・・・・その時、背後に僅かながら人の気配があった。辰之丞は咄嗟に身をかがめた。しかし、その気配は瞬く間に木立の中へと消え去った。辰之丞はその正体を少々怪訝(けげん)に思った・・・・・・
 ――陽は、高く昇った。今し方通った小径を、辰之丞は再び歩き、十町許り戻った・・・・・・折しも、お稲姫が北館(きただて)の館から花の中へと下りてきた。辰之丞は、立ち止まりお稲姫を見詰めた。姫はちらりとこちらに眼を呉れた。辰之丞は、深く頭を下げ、低い姿勢で姫の前に寄った。
 「昨日、山の神に詣でました。」
 「そなたの願いが本当になることを祈っております。」
 辰之丞は目を上げた。
 「拙者、しばらく城下に留まり、桂節先生の塾へ伺うことになりました。」
 「左様ですか、どうか学問が成就されますことを・・・・・・」
 雉(きじ)の親子が二人の横を通り過ぎ、やがて青空に向かってハタハタと音を立てて飛翔した。その果てに望まれる、八幡岳の山肌が雲間から陽を受けて、緑色に輝いていた。
 「時に、お山は如何でしたか?」
 「美しい山でございました。山の神に南部の安寧を祈願して参りました。そして、晴嵐(せいらん)の中に八甲田の峰を望みました。」
 「それは大層美しかったことでしょう。山の神様がこの地に平和を齎(もたら)してくださりますよう・・・・・・」
 ――姫は、辰之丞に手を伸べた。辰之丞は身を起こし、手に受けようとしたが、間尺が足りない・・・・・・半歩進んで手に受けた。それは蛤の貝殻であった。
 「わたくしは、はっきりと覚えております。――木通(あけび)を一つ・・・・・・そなたが呉れましたことを。」
 「拙者もあの時のことを仔細に覚えております。」
 「あれは往(い)にし方(え)のことですが、まるで昨日(きのう)のことのようです。――」
 「お稲様、何か不足の事があれば、拙者に仰せ付け頂きたく存じます。」
 お稲姫は、花菖蒲に眼を落とした。
 ――しばらくして、
 「いつかまた、あの調べを聞かせてお呉れ・・・・・・」お稲姫は穏やかな調子で云った。
 「承知仕りました。また参上します。」辰之丞は、お稲姫に深く一礼し、森へと駆けた。――

 南町の家へ帰ると、強い鼓動が辰之丞を襲った。
 畳に寝転び、天井を眺めると板の木目が相似を為して並んでいた。それを一つ、二つ、と数えていくと、次第に鼓動の波は小さくなった。
――志乃が部屋に入ってきた。
 「川向の嘉平様から使いの口上(こうじょう)がありました。未の刻(午後二時頃)にでもお立ち寄りいただきたいとのことです。」
 「承知仕りました。桂節先生のところへ参る前に、寄ってみます。」
 その日、昼飯の後、辰之丞は川向に嘉平と小鶴の家を訪ねた。――
 未の刻(午後二時頃)、辰之丞は小川町を抜け、七戸川に架かる橋を渡った。嘉平の家は川沿いにあった。辰之丞は、志乃から聞いていた屋敷の外観を確かめ、訪いを入れた。
 家の中から誰何(すいか)の声がした。辰之丞が応じると、戸が開き、小鶴が小奇麗な姿で現れた。
 「いらっしゃいまし。お待ち申し上げておりました。」
 「お邪魔致します。」
 辰之丞は中に入った。
 「これから登城なさるのでしょうか?」
 「左様でございます。きょうは嘉平がお話し申し上げたいことがあるようです。ごゆっくりなさいまし。」
 そう云って、小鶴は辰之丞を奥の間に通した。

 ――嘉平は大柄で勇壮な男に見えた。
 「お初にお目に掛かります。」
 「貴公のことは桂節先生から伺っております。」
 「はい、先生には先日お面晤に与かりました。その時、大学の書写を仰せつかりました。」
 「そうでしたか。私もその昔、大学をじっくりと読みました。それから論語です。」
 二人の眼が合った。
 「きょうは少し伺いことがありまして使いを差し上げました。」
 「はい。そのつもりで参りました。」
 「この七戸は旧くから津軽の勢力と対峙し、南部の北の要衝として機能しております。しかしながら、南部宗家のお世継ぎ問題の後、九戸政実の反逆に連なる動きが領内にあります。これは桂節先生も懸念されています。」
 「仰るように、七戸は南部の要衝です。津軽の統治を回復するに当たっては、必要欠くべからざる地です。南部宗家もそのことは十分承知の筈です。」
 「南部宗家と九戸政実との内紛次第では、南部は分裂するでしょう。七戸のお殿様がどちらに与(くみ)されるかによって、この土地の民の運命も変わってしまいます。率直に伺いましょう。貴公はどのように考えますか?」
 「雪斎先生は今回の騒動もあって、南部の領土安泰を図るべく京に上られました。先生は、双方が和し、内乱をどうにか回避すべきとのお考えです。拙者は、南部が再度一丸となって、津軽の覇権を大浦為信から奪還し、南部所領が平定することを願って止みません。」
 「ほう、・・・・・・」嘉平は障子から漏れる陽を、少し眩しそうに見た。
 「大浦為信は津軽の豪族を纏めております。南部からの独立は時間の問題です。」
 「拙者の父は、津軽の地に戦に赴き、そのまま行く方知れずになってしまいました。一度津軽の地に参りたいと・・・・・・」
 「心中お察し申し上げます。しかしながら、今は学問に精進なされては如何かと。――」
 「拙者は、天下のことは詳しくは存じませぬ。唯、世の安寧を願うだけです。」

 「辰之丞殿、――嚢中(のうちゅう)の錐(きり)――と申しますな。剣も学問も相当の方と拝察致しました。」
 「決して、そのような・・・・・・」
 「ところで、城中にはお姫様を巡る騒動が出来(しゅったい)しております。貴公はそのことをご存知ですか?」
 「詳しくは存じませぬ・・・・・・」
 「お稲様の御母堂は、ご側室の萩の方です。萩の方は、お稲姫ご誕生の後、病を得、程なく亡くなられました。ご正室はお稲様を疎んじ、お稲様は北館の奥の館からお出ましになりません。姫様は品格を備えた、稀にみる美貌の持ち主です・・・・・・」
 「左様でございますか・・・・・お稲様に何か?」
 「お世継ぎは何分年少で元服もなされておられません。縁組みもまだまだ先の話です。お稲様はその美貌ゆえに、諸侯の嫡子(ちゃくし)や地氏が正室にと名乗りを挙げておりますが、頑なにそれを拒まれております。今はお殿様の微温的な保護のもとにありますが、行き先次第では、領内に禍根を残しかねません。」
 「お稲様が拒まれてらっしゃるのならば、致し方のないことです」
 辰之丞は嘉平の眼を見た。
 「それがしの申しているのは、その美貌が政争の具にされかねないということです。三本木在(さんぼんぎざい)の豪族が、お稲様を熱望しています。」
 「お稲様が政争の具に・・・・・・それは残念なことです。」
 「時下豊臣秀吉が天下統一に向け東に進んでいます。南部信直公の下、南部諸侯が一丸となってこれに処す必要があります。ご高承の通り、信直公は天下の情勢に対する見通しをお持ちです。秀吉に従順な態度を示していらっしゃる。しかし、領内では九戸政実の動きを危惧しておられます。若し、結束を欠き秀吉に反旗を翻すものがあればその地は滅亡します。」
 「桂節先生もそのことをご懸念されています。」
 「先生は只今登城され、ご家老天内主税(あまないちから)様と情勢を計っておられます。これは南部領内のみならず、天下の話です。先生は、京で学んだ折、この混乱極まる戦国の世を目の当たりにしておられます。その政治に対する眼力は、言うに及びません。そう遠くない将来、豊臣秀吉は小田原に北条氏政(ほうじょううじまさ)を攻めるでしょう。小田原城が落ちれば、矛先は奥羽諸藩に向きます。若し九戸政実がこの戦に挑んだ場合、七戸のお殿様は如何為されるか・・・・・・」
 辰之丞は黙った。話があまりに大きかった。
 その時、小鶴が間に入ってきた。
 「失礼致します。これからお城に登ります。何か御用向きは?」
 小鶴は、少し意味のあり気な眼を辰之丞に向けた。
 「気をつけて参れ。」嘉平がそっけなく云った。 
 小鶴は辰之丞に一礼して下がった。
 (小鶴は、拙者とお稲様の逢瀬に感づいている・・・・・・)辰之丞は咄嗟に思った。
 「ところで辰之丞殿、剣の勝負を致さぬか?」嘉平は鋭い目つきで辰之丞を見た。
 「生憎にも、剣は不得手でございます。」
 「先生から聞いております。貴公、かなり出来る・・・・・・勿論、面籠手(めんごて)をつけた勝負です。馬せり場の横に明徳館という道場があります。そこでそれがしは皆伝を得、弟子に稽古をつけております。」
 「お手柔らかにお願い致します。」
 「それでは、三日後で如何でしょうか?」
 「承知しました。」
 「大学の書写がおありでしょうから、申の刻(午後四時頃)にでも・・・・・・いずれ道場でお待ちしております。」
 ――辰之丞は嘉平の気概に押されてしまった。

 辰之丞は毎日欠かさずに桂節の塾に赴き、大学の書写をした。そして、嘉平を訪ねた三日後、辰之丞は明徳館へと向かった。
 刻限に訪いを入れると、稽古着を身につけた、まだ少年の面陰のある門弟が、道場に案内した。道場は徒広く、五十畳はあるかと思われる板の間の稽古場があった。
 嘉平は既に面籠手を前に座っている。――辰之丞は嘉平に向き合って座した。
 「辰之丞殿。本日は一本勝負で参ろう。」
 「はい。一本勝負で・・・・・・。」
 ――二人は立ち上がった。
 辰之丞は青眼(せいがん)に構えた。竹刀の先端が嘉平の眉間から左右の瞳を捕らえていた。このとき嘉平は小揺るぎもしなかった。竹刀が不気味な程に静止している。しかし、気が付くと、嘉平の姿は静から動へと連なるように左右に揺れた。そして竹刀は、鶺鴒(せきれい)の尾(び)の如く淀みなく、しかも僅かに動いている・・・・・・そう思った瞬間、嘉平の竹刀が眼に見えない程の速さで籠手に来た・・・・・・。辰之丞はかろうじてかわした。
 ――冷たい汗が全身に滲んだ。嘉平は強かった。田舎道場だが流石に免許皆伝だけはある。
辰之丞は間合いを計った。嘉平の突きが来た。それをかわし、すかさず胴を払いに行った・・・・・・決まった、と辰之丞は瞬時に思った。しかし、嘉平の竹刀は見事に辰之丞の面を割っていた。脳天がしびれ、気が少し遠くなった。
「それまで。」門弟が二人を分けた。
 ――しんとした空間の中で、二人は下がって礼をし、防具を外した。
 「見事な胴でした。相打ちですな。」嘉平は表情を変えずに云った。
 「拙者の胴は浅い。一本とられました。」辰之丞は素直な気持ちでそれに応じた。
 「着替えて座敷に上がりましょう。」嘉平は微笑して、辰之丞を洗い場へと誘(いざな)った。

 道場の出口には、数人の門弟が集まって、ざわざわと話をしていた。おそらくその話は、今の相打ちについてだろう・・・・・・道場を出て、長い廊下を抜けると広い庭に出た。廊下から一段を降りたところに、洗い場はあった。二人は手ぬぐいで汗を拭い、庭からの心地よい風に当たった。

 嘉平は、辰之丞を奥の座敷に講じ入れた。
 座に着くと、
 「道場主の佐木惣次郎(さきそうじろう)先生はそれがしの師匠で、お城の剣術指南方を為さっています。ところが先年、原因不明の病を得、只今彼の地で病臥しております。」嘉平は淀みなく語り出した。
 (剣術指南方・・・・・・佐木惣次郎・・・・・・)辰之丞はその名に聞き覚えがあった。何処で聞いたか?・・・・・記憶を辿ったが咄嗟には思い出せない。
 さあらぬていで、
 「彼(か)の地とは、ご領地でございますか?」と嘉平に訊いた。
 「はい、領内に温泉の沸く地があります。」
 ・・・・・・辰之丞は、八幡岳の帰りに、山舘部落から左組部落にかけて、左右吉と歩いたときの情景を思い起こした。確か、小鶴の実家がある筈だ。山は家々に迫っていて、その隙間を縫って作田川が流れている。
 「左組部落の辺りでしょうか?」
 「いや、左組部落ではありません。街の北方に天間舘 という郭がありますが、更にその奥の地です。佐木先生はその地で療養しておられます。先生の容態は快方に向かっていますが、道場での指導はそれがしが当たっています。」嘉平は明快に答えた。
 「あの剣は?」
 「秘剣とは申しますまいが、先生秘伝でのものです。」
 「使い手は他に何方(どなた)か?」
 ・・・・・・嘉平は哄笑(こうしょう)した。
 「辰之丞殿。この剣はそれがしの他には未だ誰の手にも伝えられてはおりませぬ・・・・・・」辰之丞は迂闊なことを聞いてしまったことを咄嗟に後悔した。――
 「ところで、三本木在の地氏向坂慶四郎(さきさかけいしろう)が領内で狼藉を働く事件が起きています。向坂は、ここ数年で急速に勢力を伸ばし、多くの地侍を傘下に収めております。若し、南部の内乱に収拾が就かず、万が一にも戦となれば、兵力が鍵を握ります。向坂はお殿様にとって、もはや看過し得ない存在です。」
 「向坂慶四郎・・・・・・」
 ――辰之丞の眼の前に、霧中の敵がはっきりとした。――
 「向坂にはどうも城中を瞞着(まんちゃく)する才能があるようです。お稲様に傍惚(おかぼ)れし、ともすれば略奪を働くのではないか、との危惧もあります。それを受けて、ご家老様はお稲様の身に危害が及ぶことを懸念され、付き人を水面下で探しておられます。勿論、付き人は腕に覚えのある者でなければなりませぬ。」
 「・・・・・・また、お手合わせ願います。」辰之丞は目礼して座を立った。
 (この御仁、端倪(たんげい)すべからざるものがある・・・・・・)

 その夜、徳蔵が辰之丞の部屋へ来た。
 「少しよいか?」
 「はい。」
 「嘉平と懇意にしているようだが・・・・・・」
 「今日は、道場で稽古をつけて頂きました。」
 「そうか・・・・・・道場でお前の腕を試したのだろう。」
 「嘉平様は相当できます。」
 「嘉平は七戸城下でも五指に入る剣客だ。それでいて武張ったところのない男だ。」
 「その他は?」
 「一人は、剣術指南方佐木惣次郎・・・・・・」
 「佐木様は、どのような方でしょう?」
 「明徳館で、親父と切磋琢磨した仲だ。――篤実(とくじつ)なお方でいらっしゃる。」
 徳蔵と辰之丞の父修太郎(しゅうたろう)は、その膂力(りょりょく)は七戸に及ぶものがないとも云われた兵(つわもの)であった。――剣術に秀でた修太郎は、七戸城下に移り住んだ後、杜氏の傍ら明徳館で修行を重ね、目録を得た。辰之丞が未だ幼い時分、お城で開かれた奉納仕合で、佐木惣次郎と戦い、激戦の末勝利した。その後、剣術指南方へ推挙する声が挙がったが、突如御下命があり、佐木とともに津軽の独立紛争に出仕した。佐木は負傷を抱えながらも帰還したが、修太郎は、その後行く方知れずになっていた。

 「南部の地は御領地争いが絶えないが、それは今に始まったことではない。親父に何故出陣の御下命があったのかは不可解な儘だ。わしには親父が奸計(かんけい)に落ちたような気がしてならない。」
 「何故でしょうか?」
 「行く方知れずになった時分、巷には親父が津軽と通じていたという謬伝(びゅうでん)が流れていた。」
 「有り得ないことです。出所は何処でしょう?」
 「それが分からない。親父の消息を明らかにすることは本懐だが、いずれ、お城が密接に関わっていることだ。深追いは出来まい。」
 「無念です。しかし、是非とも佐木様には御面晤仕りたく・・・・・・」
 徳蔵は羽織の袖に手を入れながら、難しい顔をした。
 「やはり、佐木様が父の消息をご存知なのではないでしょうか?嘉平様から、天間舘 郭の更に奥の地で療養中と聞きましたが・・・・・・」
 「佐木様は病身ながら、ご家老天内様からお役を仰せつかっているようだ。居場所も定かではない。しばし待て。」
 徳蔵の云い振りに辰之丞は得心した。が、父が津軽の地で生きていることを、辰之丞は信じて疑わなかった。――
 「ところで、七戸で万が一のことがあれば、その時は左右吉が頼りになる。左右吉の親父は山舘の地侍(ぢざむらい)だが、我らの同郷の士だ。左右吉ならば、山を伝って南へ抜けることも出来る。そこには美しい湖がある。その湖は八甲田の南に位置し、海のように大きく誰も入ることはない・・・・・・。それから小鶴のことだが、あれは性根の確かな女だ。城中で何かあれば、屹度(きっと)力になる。――」徳蔵は静かに云った。

 水無月十日、芒種(ぼうしゅ)から数日が過ぎていた。夕暮れに作田川の瀬音が聞こえ、空には雨雲が薄黒く浮かんでいた。川岸の紫陽花は花をつけはじめ、梅雨の季節の蒸すような予感がした。
 森のはずれには、蕗(ふき)が群生し、蝸牛(かたつむり)が蕗の葉の上を歩いていた。辰之丞は蕗の葉から落ちる水滴をよけながら空堀を超え、北館の西端に出た。空を見上げると、薄黒く低い雲が風に靡(なび)いて、隙間から陽光が差して来た。
 お稲姫は薄衣を纏い、花畑の中に居た。
 ――辰之丞は緑陰からその姿を認め、辺りを見回して、花畑に下り、姫の前に寄った・・・・・・その時、姫の顔に何処か安堵の色が映った。 その表情をみて辰之丞は心に誓った――お稲様をお守りしよう、と。
 「拙者、お稲様に何処までもお仕え申し上げます。」
 ――姫の顔が緩んだ。
 「将来(すえ)も過去(こしかた)もあろう筈はありません。――」
 「お稲様の身に危険が迫っていると伺いました。拙者がお力になりたいと存じます。――お稲様を山の奥の湖へお連れ申し上げます。そこは安穏(あんのん)の場所です。一時(いっとき) 八幡岳の麓に身を潜め、暫時(ざんじ)の後(のち)、湖まで参りたいと存じます。道中は拙者がお供致します。」
 「山の奥の湖・・・・・・」少しの後、姫は諦観した面持ちで囁いた。
 「どうかご即断を・・・・・・」
 「わたくしはそなたと湖へ参ることを諒(りょう)とします。――今宵、月が昇った後、館までお起こしくださりますか?」
 「かしこまりました。今宵、必ず参ります・・・・・・」

 日暮れから、月は赤く大きく東の空に浮かんだ。辰之丞は、川岸を伝い、低い月に向って北館へ登った。――森を抜けた頃、陽はようやく暮れようとしていた。薄明(はくめい)を背に、八幡岳が深い藍色に霞んでいた。
 夜陰を待ち、辰之丞は空堀を越えて、お稲姫の館の濡れ縁に上がった。蒼然たる月の光を頼りに歩を進めると、僅かに板の軋(きし)む音がした。突き当たりの障子に蝋燭(ろうそく)の炎が揺れている。辰之丞は、大小を濡れ縁に下ろし、戸をそっと開けた。
 そこは四畳半の間であった。――辰之丞は座して姫に礼をした。少し眼を上げると、お稲姫は浴衣を召して、床の間の左に座していた。床の間には、桂節の手になる軸が掛けられてあり、卯の花が一輪活けられていた。――
 「五月山(さつきやま) 卯の花月夜 ほととぎす 聞けども飽かず また鳴かぬかも」拙者、そういう歌を覚えております。
 「万葉の歌人も、卯の花月夜を見たのでしょうか?」姫は床の間に眼を移した。
 「今宵、月は満ちております。ここも都も月は同じようでございます。」
 姫は立ち上がり、障子を開けた。冷気がすっと差し込んだ。月は夜空に円く昇り、月明かりの中に、空堀の縁に咲く、卯の花の群れが白く浮かんで見える。
 「聞けども飽かず また鳴かぬかも・・・・・・今宵、ほととぎすは、鳴くのでしょうか?」姫は月を見上げた。
 「月はまだ昇った許りでございます。このような美しい卯の花を月光の下に見て、幸せの至りでございます。この月夜に、ほととぎすも屹度鳴くことでしょう。――」
 二人は、しばらくの間月を眺めた・・・・・・

 ――月はゆっくりと西へ動き、やがて空堀に花陰が生じた。
 「お稲様、ご出立のご用意を・・・・・・」
 姫はそっと障子を閉めた。それから半刻程して、障子に映る蝋燭の炎が消えた。
 その夜の月は煌々(こうこう)と輝いていた。――

続き(姫塚伝説 ~その3~)

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