歴史散歩

廣澤安任(ひろさわ やすとう)

1830年(文政2年)~1891年(明治24年)
会津藩士として京都守護職公用人となり新撰組の管理などを行う。また、神戸開港の立役者となる。
維新後、斗南藩少参事を経、開牧社(後の廣澤牧場)を設立し、殖産興業に尽力。青森県設立の中心人物ともなった。

会津の士、北へ

廣澤安任 肖像

 新渡戸傳は膝を打って応じた。賽は新渡戸の読み通りの目を示した。
 七戸の疲弊は、限界をとうに超えていた。長年にわたる蝦夷地警護のための出費、官軍との戦いと降伏、そして続く凶作。本家・盛岡南部家も同様で、支えることができない。士は肩を落とし、民は痩せ衰えていた。
 七戸と、そして自らが切り拓いた新世界・三本木が生き延びることができるか。すべては新渡戸の読みに懸かっていた。
 朝敵として隠居を命じられた前領主・南部信民の名誉を回復して士族をまとめ、民の窮乏を救うため、「敵」である明治新政府に無心を願い出る。相手にしてみれば虫のいい一方的な願いがただで通るとは、もちろん新渡戸は考えなかった。
七戸の領地を分割して、会津藩を受け入れる。七戸領内には、広大な未開墾の土地がある。
 もちろん今まで誰も拓くことができないから未開墾なのであって、そこに入植する会津藩の苦労が途方もないものであることは、開墾のオーソリティーたる新渡戸自身がいちばんよく知っている。盟軍・会津に地獄を見せるのは忍びない。

 新渡戸はかつて三本木を見学に来た、自分と同じ目をした会津の青年武士を思い出していた。彼は投獄中で会津戦争には加わっていない。その彼が、罪を赦され、会津に戻るという。ならば会津にも生きる道は拓けよう。
 時に明治2年。新渡戸は駒を進める決意をした。

京洛の血煙

 文久2年(1862年)、幕末の京都の治安は乱れに乱れていた。同年8月には横浜で生麦事件が発生し、それを受けて京都では、尊王攘夷派と公武合体派との間で、暗殺を含むテロが頻発した。
ただならぬ事態に、幕府は会津藩主・松平容保に、京都守護職を命じた。
 親藩の名にかけて重責を担った会津藩は、二人の俊英を容保に随伴させた。秋月悌次郎、そして廣澤安任である。翌文久3年、廣澤らは京都に着任し、公用人となった。

 廣澤安任は天保元年(1830年)、下級武士の次男として生まれる。早くに父を亡くし、貧困に苦労しながら、28歳にして江戸・昌平坂学問所に入学。他人より10年も遅れている。
 幼い頃は気が弱かったというが、苦労しながら文武に励むうち、小事にこだわらぬ剛毅な性格となった。
 この時期、会津藩はその立場上、ただならぬ忙しさであった。ために廣澤も軽輩ながら、才を認められ重用された。前年、京都へ上る前には箱舘奉行に随伴し、その途上、開拓途上の三本木に立ち寄り、新渡戸傳と会っていると思われる。
 公用人という役職は、守護職・松平容保を補佐し、朝廷、幕府、薩摩藩、外国など様々な組織を相手に折衝するのが主で、このとき親交を結んだ大久保利通、勝海舟、福沢諭吉、渋沢栄一、そして駐日イギリス公使館のアーネスト・サトウらが、廣澤のこの後の人生に大きく関わってくる。
 彼らとの交わりの中で世界を知った廣澤は、朝廷の会議の席上で開国を論じ、兵庫開港を実現せしめた。

 そして、事務方・交渉方ばかりが廣澤の仕事ではなかった。時代は廣澤に血塗れた刃を握らせる。「人斬り新兵衛」として名を馳せた田中新兵衛を逮捕、自刃に至らしめたのは廣澤安任の最初の武勲となった。
 廣澤が着任した文久3年(1863年)は、尊皇攘夷運動がもっとも過激な年となった。尊王攘夷派の公卿・三条実美らが朝廷の実権を握り、それに乗じて長州藩が京都でもっとも力のある集団となる。このとき上洛した将軍・徳川家茂でさえ、長州の言いなりにならざるを得なかった。
 長州の暴走はついに、将軍家茂の命ありとして、関門海峡を封鎖し、外国船に対し砲撃を行うに至った。英・米・仏に対し、戦争を仕掛けたのである。これにはさすがに攘夷派の諸藩もついて行けなかった。
 8月18日、朝廷、幕府、諸藩が協力して、長州および三条実美ら過激な尊攘派公卿を一気に追放した。会津藩はこの中心的役割を果たし、廣澤安任は、秋月悌次郎と共に諸藩を駆け回り、この「クーデター」の謀議をまとめ上げた。

 また、この時大きな働きをした集団があった。江戸から将軍警護の名目で上洛し、分裂後居残った、芹沢鴨、近藤勇ら率いる壬生浪士隊である。
 会津藩はこの浪士隊に「会津藩御預かり」という地位と運営経費を与え、「新撰組」として京都守護職の別働警察部隊に仕立てた。指揮・監督は廣澤の担当であった。
 以後、新撰組を使って尊攘派の徹底弾圧に乗り出す。時に自らも刀を抜き、近藤、土方らと共に戦った。

囚中八首

 慶応2年(1866年)、坂本龍馬らの斡旋で、薩摩藩と長州藩は密盟を結んだ。いわゆる薩長同盟の成立である。これにより、時代は倒幕という方向に傾いた。西南の諸藩は、次第にこれに同調していった。
 これまで共に公武合体運動を行ってきた会津にとっては、薩摩のこの転換は、到底肯んじがたい裏切りであった。後の戊辰戦争において会津藩の悲劇的なまでの徹底抗戦は、この時の衝撃に因るものが大きい。
 慶応3年、ついに倒幕の勅命が下る。徳川慶喜はすでに大政奉還し恭順の意を示していたにもかかわらず、官軍は幕府側と目される東北諸藩を苛烈に攻めた。

 松平容保とともに江戸へ戻った廣澤安任は、あらゆる人脈を駆使して、会津藩に朝敵となる理由がないことを説き、世界情勢を説き、戦争回避の交渉を重ねていた。
 しかし、かつて居並ぶ公卿や諸藩を前に開国を説いた廣澤の理と迫力も、燃えさかる時代の炎にはかなわず、京で長州人たちを弾圧した罪で投獄された。
 皮肉なことに、官軍に接収された会津藩上屋敷が獄舎として使われていた。廣澤は悔しさのあまりこんな詩を吟じている。

是我当年政事堂
豈図忽地作囚墻
乗除何数看如此
不堪断腸還断腸
(大意:ここは私のかつての仕事場だ。こんなところに囚人として押し込められるとは!悔しさではらわたがちぎれてしまう)

 故郷の会津では同胞が無残な死を遂げ、家を焼かれ、田畑が踏み荒らされている。しかし廣澤は獄につながれ、槍をとるはおろか見ることさえかなわない。

斗南藩、北へ斗南藩領概図

 上野彰義隊、白虎隊、会津戦争、箱舘戦争。数々の悲劇を生みながら戊辰戦争は終結した。
元号も改まり、明治の世を迎えた。
 廣澤安任は、死刑囚として斬首の日を待っていた。会津藩降伏の報を知り、悲嘆に暮れていた。
 ところが明治2年11月、廣澤は釈放された。彼を救ったのは、かつて世界情勢を論じ合った英国人、アーネスト・サトウであった。
 新政府は人材が払底していた。維新の熱もやや落ち着き、かつての敵も国を憂う気持ちは同じ、と考える余裕も出てきた。そこで、敵味方問わずに人材捜しが始まる。サトウは廣澤の才と胆力を惜しみ、新政府の重鎮・木戸孝允(桂小五郎)のもとへ手紙を送った。木戸は長州であるから、会津に対する恨みは深かったが、サトウの懇願を容れた。勝海舟も有能な人材として廣澤をリストアップしていた。
 しかし、社会へ戻ってみると、会津藩はあまりに厳しい現実に直面していた。朝敵として領地召上、藩主・松平容保は死罪と決まった。死罪は上席家老が身代わりに首を差し出し、一等減じられたものの、容保は隠居、生まれたばかりの幼君・容大を藩主として立てねばならなかった。会津戦争は殲滅戦であった。藩内の要人はほぼ死んでいる。
しかも、同じく朝敵となった南部・七戸の領地を割ってその一部へ国替えである。いくつか領地は分散していたが、主として今の下北半島あたりである。
 会津は富裕の地。表高23万石、実質40万石の大藩が、わずか3万石、それもあくまで表高で、実質はその3分の1にも満たないであろう極寒の地に移らねばならない。
 若きエリートで人望厚い山川浩(当時26歳)を大参事(現在の県知事相当)とし、雄弁かつ夢想広大の士、永岡久茂(当時30歳)を少参事、そして彼らが信頼する廣澤安任(当時40歳)も少し遅れて少参事として加わることになった。廣澤はかつて箱舘奉行の随員として、この土地を知っている。
 新しい藩名は斗南(となみ)藩。北斗以南、つまり北の果てである。

神代のままの国

 帰農して会津に残った者を除いて、会津藩士の大移動が始まった。陸路・海路で五戸、野辺地、田名部(現在のむつ市)にたどり着き、開拓の準備を始めた。
 豊かで気候のいい会津から来た人々は、初めての地・南部に驚いた。
 まず当時としては当然だが、言葉が通じない。衣服はぼろ布、帯は縄、髪は束ねもせず、ぎらぎらした目で見つめている。現代の感覚でいえば、日本人が突然未開の発展途上国に放り出されたようなものであろう。会津人の遺した日記には、南部の人を「半人半獣」と表現している。ただし、打ち解けてみると決して野蛮人ではなく、心優しい人間が多かったという。
 つまりは、極度に貧しかったのである。ましてこの時期は、前述したように南部は立て続けに凶作に襲われていた。

 筆者は南部人であるから、ここで少し弁解を許されたい。それまでの経済は、豊臣秀吉の太閤検地以来の「米本位制」という、世界に類を見ない特殊なものであった。南部の地、特に三本木・斗南あたりは、土地は火山灰土、夏には冷涼な季節風(やませ)が吹き付ける米作不適地帯である。制度上貧しくならざるを得ない。これについては、いずれ機会あれば別稿で論じたい。

 自然環境も違う。会津では田畑は整えられ、治水もしっかりしており、里付近の山々も人の手で管理されていたであろう。しかし斗南は、未開墾の荒野だ。
 そして、寒かった。同じ東北とはいえ、最南端の福島と、最北端の青森では、冬場の寒さが全く違う。まして当時の家屋や衣類である。まさに寒冷地獄と感じたであろう。
 大参事・山川浩は、こう詠んでいる。
 「みちのくの斗南いかにと人問はば 神代のままの国とこたへよ」
 本当に何もない、神がこの世を創りたもうたそのままの状態から、明治2年、斗南藩は始まった。

辛苦、朝露と消ゆ

 藩庁ははじめ五戸、その後すぐに田名部(現在のむつ市)に置いた。庁舎は恐山で有名な円通寺である。
 もう武士の世の中ではない。世に名高い会津武士道を心の奥にしまい込んで、身分の上下も捨て、原始共産制のように、少ない資金や食糧を分け合った。
 慣れぬ百姓仕事に慣れぬ土地柄。斗南の人たちの流した涙はいかばかりか。
 七戸藩の新渡戸傳は、斗南藩に対して、自藩も厳しい状態ながら、多大な援助を行った。自らパイオニアである新渡戸にとって、藩の違いなど問題ではなかった。彼の目には、斗南の人々は、開拓の同志と映っていたであろう。
 廣澤の盟友にして交渉の達人・太田廣城が大参事を務める八戸藩、そして「官軍」であった弘前藩も援助を惜しまなかった。

 新しい土地で新藩の礎石となるべく命を削った斗南人の血涙は、しかし廃藩置県という嵐に流された。
 明治2年11月の新藩設立から2年に満たない。明治4年7月、廃藩置県の発布と共に、斗南の朝露は消滅した。忠義を誓うべき藩が無くなり、苦難に耐える支えとなった薩長への恨みも、対象が無くなってしまった。斗南人は落胆し、多くが斗南の地を離れた。会津へ帰る者、新都市三本木に移住する者が多かった。
 職を解かれた大参事・山川浩は、反政府運動に身を投じたが、後に帝国陸軍に入り、西南戦争では会津抜刀隊を率いて、旧怨の西郷隆盛と大いに戦った。ちなみに、理学博士で東京帝国大学総長であった山川健次郎は、浩の実弟である。
 永岡久茂は、不平士族を率いて思案橋事件に参加し、捕らえられて獄死している。
 斗南には、ひとり廣澤安任が残った。

剣から鍬へ

マキノンとルセー

 この時の廣澤の心境はどうあったか。
 鳥羽伏見の戦いの後、獄につながれた時点で武士としての廣澤安任は死んだのではないか。
 獄中、廣澤の死罪はほぼ決まっており、本人もそれを了知していた。獄を出て斗南の地に立った時点で、すでに彼は武士ではなく、開拓者になっていたのではないか。
 京洛で新撰組と共に尊王攘夷派を斬った刀を置き、鍬をとる道を選んだ。血煙を土煙に置き換え、議論や暴力ではなく、農で国を拓く道を選んだ。

 斗南の地は、米作には不適だが、七戸の先達・新渡戸傳は牧畜に力を入れた。廣澤自身も、これからの洋式の生活を見越して、畜産の道に進んだ。外国人並みの体格と体力を持つためには、肉食と乳製品が必要だと考えたのだ。
 廣澤は新生・青森県を見て回り、小川原沼(小川原湖)の太平洋側、現在の三沢市谷地頭(やちがしら)に目をつけた。半ば湿地で、夏には塩気を含んだ霧が海から吹き付ける。稲作は無理だが、牛馬の飼育にはうってつけだ。八戸県大参事・太田廣城と共同出資で、この谷地頭に近代的な牧場を開いた。西洋から積極的に機械化を取り入れるべく、通訳としてイギリス人・ルセー、同じくイギリス人で畜産技術者のマキノンを雇い入れた。
 機械化ばかりではなく、会社組織も近代化を図った。12条と附則19条からなる会社規則は、それまでの封建的な「奉公」ではなく、会社と社員の相互の責任を明確にしたもので、利益の分配から労働災害まで丁寧に規定している。

廣澤牧場で使われていたプラウ

 廣澤が牧場設立と経営の要点を著した「開牧五年紀事」は、理念から実務まで明快に記したもので、現代の経営者の参考書にもじゅうぶんなり得る名書だ。序文は京都時代から親交のあった福沢諭吉が書いている。
 それまで腰に大小を帯びていた武士が、何もない大地に、何もないところから、 それまでの日本になじみのない牧畜を始めた。プラウやハローなど、誰も見たことのない農具を、書籍やマキノンの知識を頼りに、鍛冶屋に特注するところから始まった。
 肉や乳製品を生産しても、顧客は近隣にはいない。外国人の多い東京・横浜に販路を求めた。資金は知己の政府要人を回って援助を求めても足りることはなく、資金繰りに悩まされた。
 しかし、文明開化の波に乗り、少しずつ経営は安定していった。
軍備増強を見越して、軍馬の生産も行った。もともとこの地は日本有数の馬産地であったが、廣澤は積極的に洋種馬を導入し、飼育ノウハウを定着させた。

野にあって国家に尽くす

太田廣城

 武士を捨てた廣澤だが、もちろん世捨て人になったわけではない。
廃藩置県後、斗南藩は斗南県となり、隣接の八戸藩は八戸県、七戸藩は七戸県となった。
 ところがこの三県は、蝦夷地警護、相次ぐ凶作、そして戊辰戦争とその敗北で疲弊しきっている。それぞれはおろか三県合併しても立ち行く状態ではない。
 廣澤はすぐに八戸の太田廣城を説得した。八戸、七戸はもともと南部氏で、戊辰戦争において津軽・弘前藩と戦ったばかりである。加えて昔からの確執がある。南部人の太田には抵抗があった。
 廣澤は、八戸の太田をはじめ、七戸、黒石を説き回り、弘前県に編入する形で青森県を成立させた。廃藩置県が行われた明治4年7月から2ヶ月後である(当時は北海道の一部、岩手県の一部も含んだ)。「よそ者」である、斗南の廣澤だからなし得たのだろう。

 これほどの才人を、人材不足に悩む明治新政府が放ってはおかない。
 明治9年、明治天皇が東北巡幸された折、三本木にお立ち寄りになった。随行には、旧知の大久保利通がいた。彼はこの機会に廣澤を訪ねた。大久保は、当時内務卿(現在の首相)である。大久保は熱心に入閣を勧めた。しかし廣澤は、「野にあって国家に尽くす」としてこれを固辞している。
 中央政界では、維新後も権力闘争が続いている。鋼の刃で敵を斬ることはさすがに少なくなったが、権力や言論の刃での斬り合いは続いていた。絶大な権力を手にした大久保とて、この2年後に暗殺されている。
 しかし、廣澤は剣を捨てた。廣澤の戦いは、大地との戦いに変わっている。殖産興業は論ずるばかりでは成し得ない。
 以後も、松方正義はじめ錚々たる顔ぶれが訪れ、廣澤を中央政界へ誘ったが、いずれも同様に断っている。

牧老人の夢設立時の青森県地図

 牧場は5年でようやく形を成し、廣澤はそのまとめを「開牧五年紀事」に著す。
この5年の間、彼は超人的な努力と理解力で、牧場経営に関するあらゆる研究を行っている。牛馬の繁殖、肉・乳の製品化、開拓のための土木工事、農具の改良、牧草栽培、南部の人心を掴み風土を知るための地域の歴史研究など、枚挙にいとまがない。
 さらには、実現は果たせなかったが、南洋雄飛の夢も描いていた。
 新しい知識を取り入れ、新しい発見をするためには、土台に自由な心を養っていなければならない。
 廣澤安任は、多忙な中、牧老人(ぼくろうじん)と号して詩作を行っている。

   自負千里能何為索絆
   跳勝支不得逸気走空半
(自負千里能く何の為に甘んじて絆を索ひ。跳ね勝ち支え逸気空半を走るを得ず)

 自分の実力を信じているからといって、何のために物事を引き受けて縛られなければいけないのか。既成概念を飛び越え、大きく飛躍することができなくなるではないか。

 明治13年、51歳の年、激動の人生で妻帯の機会に恵まれなかった廣澤は、突如として20代の娘を連れてきて、妻とした(異説あり)。
老いてますます壮気盛んとなり、全国に洋式牧畜を広めるべく、廣澤牧場東京出張所を設け、時の名士たちに遠大な夢を説いた。

廣澤牧場

 夢は無限に広がる。しかし、人の時間は無限ではない。
 明治24年、東京では悪性のインフルエンザが流行した。東京・淀橋の邸宅で、廣澤は高熱にうなされていた。長州と戦い、日本を開国に導き、青森県を作り、大地を切り拓いた無敵の壮者も、病には勝てなかった。
 享年62歳。牧老人はその夢を閉じた。

青森県が洋種馬普及のために廣澤牧場に預けたトウテー号とレーノルド号を描いた大絵馬

本稿は、史実をもとに、読み物として構成いたしました。
詳しくは三沢市先人記念館まで足をお運びください。

写真提供:1~5 三沢市先人記念館

主たる参考文献:
活人剱 活人農 (廣澤安正 伊吉書院,2009)
会津藩斗南へ (星亮一 三修社,2009)
開牧五年紀事・復刻版 (廣澤安任 三沢市先人記念館,2000)
七戸町史(七戸町,1985)
広沢安任伝(盛田稔 貯蓄時報第101号 日本銀行貯蓄推進部,1974)
七戸近世史(鷹山雅春 七戸近世史刊行會,1949 玉手蔵書)
上北郡乃栞(武田義信 北星社,1912 二ツ森守氏蔵書)
協力:廣澤安正氏、盛田稔氏、三沢市先人記念館
(文責:玉手 孝尚)

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