歴史散歩

工藤轍郎(くどう てつお)

1849年(嘉永2年)~1927年(昭和2年)
七戸の下級武士の子に生まれ、開拓の専門家となる。馬耕技術の導入、土質改良、農業組合設立などを行い、また私費をもって小学校を建てるなど、上北郡近代化の父となった。

柏葉城の燠火

工藤轍郎

 青年は間近でそれを見た。
 夕暮れ近く。松明を手に、百姓・治郎兵衛、そして総髪に髷を結った数名の郷士が「御城」の前に立ちはだかった。
 そしてそれを取り囲む数百とも知れない百姓たちが、押し殺した気配をそのままに、夕闇に溶けていく。瞳だけが松明の灯りを映す。静かに、炭の中に潜む燠のように、薄暗く熱く、燃えていた。

  「いかなる次第になっても、世を恨むな。人を恨むな」
 数日前の出仕の朝、父の隆太が居ずまいを正してそう言った。朝まだ暗い内から、母が父の月代を丁寧に剃っていた。この貧しい家のどこにそんなものがあったかと思えるほど真っ白なさらしを腹に巻き、額には鉢金を巻いた。腰には本身の大小を帯びている。父が真剣を振るう姿など、見たことがない。剣の稽古すら見たことがない。いつも鍬を振るい、百姓たちと分け隔てなく汗を流していた。ごくたまに酒が手に入ると、野良の仲間を家に呼んで振る舞った。
 父は青年に、家伝の陣笠と槍を与えた。一昨年の秋田戦争の際、父が持って出たものだが、使われた形跡はない。
 「憎めば、わがね」(憎んではだめだ)
 土間で背を向けた隆太は、背の風呂敷を締め直し、そう言って出て行った。

 父の背負っているものを、青年は想った。御一新で父ら南部の郷士は領地を没収された。一部の者を除いて、士籍はあるが家禄がないという「無禄士族」(それ以前から御給人という同様の身分があった)という奇妙な身分が出来てしまった。幸か不幸か、工藤隆太は新しくできた七戸藩に雇われた。たった九石では半農半士の生活は変わらない。かつての同僚たちからは、とてもそんな禄に見合わぬほどの妬みを買った。今度の一揆は、百姓ばかりではない。彼ら無禄士族も加わっていた。
 明治3(1870)年。誰も彼もがやりきれぬ思いを抱えて生きていた。父は、一揆衆の集まっている八幡林(現・東北町)に、調停に出向いた。その背には、形ばかりのくせにやけに重い「士分」を背負っていた。

 門で父と別れ、轍郎は「登城」した。正確には城ではない。当時は三本木陣屋といった。現在の七戸(柏葉)城趾である。三本木(現在の十和田市)は新渡戸傳が開拓した土地であるが、ここを三本木陣屋としたのは、希代の策士・新渡戸のトリックである。それは措こう。八幡林に集合していた一揆衆は、轍郎の父・工藤隆太らの命がけの調停によっていったん鎮静化していたが、他村から遅れて入った者たちに再び煽動され、城下に迫る勢いとなった。

 陣屋を預かる大参事・新渡戸傳は、城下の大店の商人に使いを出し、ありったけの米を炊かせ、ありったけの酒を用意させた。
 「轍郎、お前の父はなんと申した」
 「は、憎めばわがね、と」
 「尊い父御だの」
 幼い頃から勉学に励み、若くして漢学と算術を教授するまでになった工藤轍郎を、新渡戸傳は気に入ってそばに置いた。
 「誰もが正しい。私は、物乞い同然の暮らしもしたし、アイノやマタギ(主に山岳部に生活する人々)とも交わり、江戸で異人や薩長ともつき合った。その誰もが正しかったよ」
 轍郎は黙って頷いた。
 「だが、正しい同士で折り合いがつかぬ。それがこの世だ。だから私は三本木という新世界を創ったのだよ」
 老人は胡座からすいと立ち上がり、次の間へ着替えに向かった。足取りは若い轍郎と同じぐらい軽やかだった。

  一揆衆は暴徒と化し、いくつかの商家を打ち壊しながら城下に入ってきた。しかし、濵幾(はまいく)、盛喜(もりき)といった大店が、握り飯と酒を振る舞い、それで我に返った。新渡戸の策が奏功したのだ。数年来大飢饉が続いた。南部家は蝦夷地警護と戊辰戦争で疲弊し尽くし、民に何もしてやれなかった。東京在府の前領主・南部信民も、朝敵として領地を召し上げられていた。実は誰もが、どうしようもないことはわかっていた。わかっていたが、苛酷な現実を壊したかった。壊した痕に何も残らないのも、わかっていた。
 そんな諦念が、一揆衆の眼を、ほの暗く光らせていた。
 すでに請願書は出している。書面での回答は翌日になろう。しかし誰もが動けずにいた。閏十月、陽が落ちて厳しい寒気が迫る。しかし、轍郎は胸の中に、鬱々とした不快な熱を感じていた。あたりを包む、瞳の奥の暗い燠が、胸を焦がすようだった。

 そのとき、その場に強い緊張感が漂った。皆の視線の先には、大参事・新渡戸傳がいた。麻裃を着け、腰には何も帯びず、ただひとりで立っていた。七十歳を過ぎたとはとても思えぬまっすぐな背筋、白眉の下には澄んだ両眼が炯と輝く。
 「皆の苦しみ、惑い、この新渡戸傳、よくよく存じておる。諸々請願の儀、後日書面にて返答つかわす。されどひとつ申しおく。この新渡戸の首がいかにても欲しいと申すなら、くれてやろう。だが、この皺首ひとつ、皆で分けて食っても、腹の足しにはなるまいぞ。予がここに大参事として在るは、そも天朝様の命なり。予に非あらば此々と書き立て、天朝様に訴え出よ。しかし皆の者、その方らも今や天朝様の民なり。この皺首、この場で食らうより、天朝様へつながるものとして、使うてみよ」
 一揆の首謀者・治郎兵衛は、かっと眼を見開き、これを聞いた。鬱々とした熱が去り、晩秋の寒気だけが残った。
 この一喝で、七戸地方史上最大の一揆は、事実上終結した。

開拓の決意

工藤轍郎肖像と思われる油彩画 上泉華陽画と思われる

工藤轍郎肖像と思われる油彩画 上泉華陽画と思われる

 翌明治4(1871)年。新渡戸傳が74歳で病没。廃藩置県により、七戸藩は消滅。七戸県となるも、すぐに斗南の廣澤安任、八戸の太田廣城らの画策によって青森県が誕生する。

 元来この地方は、租税である米の収穫が期待できないため、豊臣秀吉以来の検地制度の例外として、「自分検見(じぶんけみ)」、つまり石高は自己申告制がならいであった。しかし、新政府は中央集権体制であるため、これを認めるわけにはいかない。検地官として実情を知る轍郎は、このままでは当地は立ち行かないことを目の当たりにしていた。父・隆太はもともと無禄士族である。わずかな期間、七戸藩から微禄を受けていたとはいえ、自ら荒れ地を開拓して耕作し、それを生活の糧にしてきた。幼少時から父に従い開拓に従事してきた轍郎は、その技術をすでに体得している。加えて新渡戸傳の薫陶があった。
 23歳のこの年、工藤轍郎は父と共に開拓を一生の業とする決意を固めた。

 最初に行った大規模開発は、七戸十和田駅から北東に位置する原久保地区の水田開発だった。これは父・隆太の企画によるものである。河岸段丘の上に拡がる広大な平原数十町歩。最低部を流れる中野川から水を引き上げ、そこから潅漑水路を引く。明治6年の起工から6年がかりの大事業であった。

 また、萩之沢(現在の東八甲田旅行村から十和田市にかけて)という広大な原野を開墾し、牧場を始めた。古くから名馬の産地であり、七戸駒はいわばブランド品である。そこへ、新政府の軍備増強で需要が高まる。近隣には先輩であり好敵手である廣澤安任が、すでに馬産を手がけている。若者は勇躍した。

 明治9(1876)年、天皇の東北御巡幸で七戸にお泊まりになることとなった。
 奥州街道(国道4号線)藤島と相坂(共に現在の十和田市)の間には、十和田湖から流れ出でる奥入瀬川が流れている。川幅は広く流れも急だが、当時は渡し船によって渡るほかはなかった。急遽政府から青森県に 対し、架橋の命があった。工藤轍郎はこれを請け、昼夜突貫の架橋工事を行い、無事御巡幸に間に合わせた。この橋の名は、現在も「御幸橋」である。
 またこの時、池之平(現十和田市)御休息所において、青森県から預かって萩之沢の牧場で養育した英国産馬レーノルド号とその仔・初萩号を上覧に供した。

 一方で、彼は七戸藩校以来の教育者でもあった。新渡戸傳の影響もあったであろう。藩庁もままならぬ折に藩校・日新館を建てた斗南藩に倣うこともあったであろう。彼は、自らが開拓した集落には、西野小学校(現・七戸町文化交流センター)をはじめとして、私費を投じて学校を建設・運営している。彼もまた、ただの開墾ではなく、新しい世界づくりを目指していたのだろう。

実りの地

 明治15(1882)年、轍郎も壮年期を迎え、いよいよ宿願の荒屋平平原の開拓に着手する。しかし、これだけはいくら工藤轍郎といえども無理だ、と周囲の誰しもが反対した。荒屋平は、三本木と七戸の間の、小高い台地である。かつての三本木同様、水のない火山灰台地で、巨石がごろごろしている。ここより高いところを流れる川からは、5km以上も水を引かなければならない。そんな話を、誰も聞いたことがなかった。

 問題は技術ばかりではない。とてつもない資金が見積もられ、そしてとてつもなく煩雑な権利関係処理が待ち構えていた。
 実は新渡戸傳でさえ、その煩雑さに因って手を付けられずにいた土地なのである。轍郎は郡長、県令と談判を重ね、東京へたびたび脚を運び、2年もの間書類に忙殺された。花巻や大館から技師と工夫を呼び寄せていながら、ただただ日当を支払って待機させる日々が続いた。新天地のために呼び寄せた農民たちも食べさせていかねばならない。資金は底をついていた。

 2年の歳月を待って、ようやく荒屋平の地に水が流れた。とりあえず耕作可能だったのは全体計画の382ヘクタール(東京ドーム約81個分)のうち、わずか24ヘクタール。それでも、轍郎を先頭に、移住してきた耕作民たちは嬉々として鍬を振るった。

 轍郎は、馬耕を積極的に採り入れた。それまで、この地は平安以来の名馬の産地であったが、それゆえ、地域の人々は馬を人間同様にいたわることはあっても、鞭を当てたり苛酷な労働をさせることを忌避していた。したがって当地には馬耕術の伝統はなく、肥後式馬耕および西洋式馬耕の講師を呼び寄せた。
 技術と水、希望に燃えた人々がいて、新しい大地には、秋には黄金の稲穂が頭を垂れるはずだった。

 しかし、実りはなかった。皆無に等しかった。
 火山灰でできた台地では、植物の生育に欠かせないリンが決定的に不足していた。水を引いて堆肥を鋤き込むだけでは駄目だったのだ。火山灰に含まれる成分が、堆肥中のリンを吸着してしまう。土木技術だけでは開墾はなし得なかった。最新の農業の技術や知識も必要だったのだ。

 希望に燃えて集まった開拓農民は、失意の内に去っていった。しかし工藤には後退の余地も逃げ場もなかった。わずかに残った農夫と共に、工藤は自ら鍬を振るった。実験田を作り、水温調整、施肥、品種などを研究した。

 3年を研究に費やした。窮乏と嘲笑に耐え、試行錯誤を重ねた。父の隆太同様、農夫と共に板の間に雑魚寝して、同じものを食べて暮らした。工藤は明治23(1890)年東京で開かれた初の全国農談会に青森県代表として赴き、渋沢栄一に過リン酸石灰を勧められ、実験田に施肥してみた。果たして、結果は大成功だった。これが青森県での初めての化学肥料の使用例となる。同じく火山灰土に悩む周辺地域でも、次々にこれに倣った。青森県上北地方の農産物の収穫量は、飛躍的に増えた。

現在の荒屋平

 その後工藤農場は、わずか5年で当初計画を上回る約550ヘクタールまで拡張され、一大農場となった。離散した小作人たちが次々と戻り、轍郎は大勢に囲まれて実りの喜びを分かち合った。

 成功の最中、日本は軍国主義が台頭してきていた。日清戦争に勝利した日本に対し、ヨーロッパ列強は強い警戒感をむき出しにしてきた。特にロシアは、遼東半島を日本に取られることは絶対に避けたかった。そこで、清国と関係の深いフランス・ドイツと共に、遼東半島を清国に返還するよう日本に求めてきた。いわゆる三国干渉である。日本の世論は、急速に対露戦争へと傾いていった。想定される戦場は、朝鮮半島から満州の、広大な大陸である。戦力は、火力以上に機動力が求められる。良質の軍馬が、しかも大量に必要とされた。
 ここではこの戦争の是非を言うまい。状況としては、無理を押して帝国主義で打って出るか、退かば瞬く間に列強の植民地となるかの二者択一だった。

ひげ塚に立つ工藤のブロンズ像

 東北か九州に種馬牧場を設立しようということになった。これら各県が名乗りを上げた。
 七戸は古来よりの馬産地である。歴史に残る名馬を何頭も輩出している。そのプライドもあったろう。愛国心もあったろう。対露戦争となれば、戦地になる恐れもあったろう。そして、ゴローニン事件以来、蝦夷地警護のために家が潰れかけた南部家の意地もあったのだろう。

 七戸は、馬産家としても顔の売れている工藤轍郎を先頭に、政府に対し種馬牧場誘致を求めて、猛烈な運動を開始した。工藤は「鉄と運動や陳情は息つかず熱の冷めないうちに一気にやるもので、息をついたら駄目だ」と言ったという。荒屋平開拓での気の遠くなるような折衝の経験からの言葉だろう。

 言葉通り、工藤は七戸士族とともに、七戸の有力商家らの資金提供を受けて、陳情活動を開始した。ついには時の農林大臣・榎本武揚に直談判を行い、その場で榎本の承諾を取り付けたという。

轍郎、狂せり

 たゆまぬ開墾と、肥料研究による農産物の収穫向上、馬の相場の高騰もあって、工藤の農場は隆盛をきわめた。
 ついに三沢の廣澤牧場(開牧社)と肩を並べるほどの規模になった。開拓移民はどんどん増え、豊かな暮らしを享受していた。

 しかし、轍郎自身はいっこうに豊かにはならなかった。相も変わらず農夫と共に板の間に起居している。ひとつには、彼の信念で、地主が楽をしては小作人に示しがつかぬということがあった。この生活は、晩年まで続いた。
 もうひとつには、利益があるとどんどん公益に投資してしまうのである。秋の収穫は、翌年の開墾資金となった。小作民のために寺社や学校を建て、大火があれば大金を投じて復興を支援し、銀行や電力会社の設立に投資してしまう。工藤の手がけた恐ろしく幅の広い事業を見渡しても、およそ自身の利得のためと思われるものが見当たらない。工藤と親交の深かった某家に伝わるイメージでは、いつも「金がない」と相談に来る人であったそうだ。生得のものではない、自ら鉄のごとき掌で切り拓いた利得を、後世のために常に送り込んでいるのだった。自分自身には夢さえあればよい、というような生き様である。

 そんな工藤だから、「轍郎、遂に狂せり」と言われた事業に取りかかった。
 荒屋平の開墾地が拡がり、到底信じられない疏水計画を立てたのだ。現・十和田市内に、湧水の地として有名な、梅(うめ)という山間の集落がある。そこから山を穿ち、荒屋平まで21.5㎞の疏水を引こうというものだった。最難関は梅山を貫くトンネル約1500m。しかもこの山は、ほとんど岩でできている。そしてこの工事の監督に当たるのは、地元出身の中野留八という大工だった。中野は、大工の出身であるから土木の専門知識はない。それどころか文字も読めなかった。
 しかし、工藤は中野に全幅の信頼を置いていた。中野はこれまで、大工の用いる「曲がり尺」と、自作の水準器でこれまでの難工事をこなしてきた。独特の勘と工夫だけで、専門の技師を上回る仕事をしてきた男だった。

 果たして、工事は難航を極めた。山の両側からトンネルを掘り進めるが、現在のような掘削機があるわけではない。ツルハシで土を砕き、タガネで岩を削る。狭いトンネルで、先頭を掘るのは常時2名。

 あるときは予想だにしない固い岩盤に突き当たる。タガネは砕け、ツルハシはひしぐ。毎日打ち直しが必要だった。
 あるときは落盤事故で死者を出す。残された家族への手厚い補償で、資金は大きく削られる。しかし工藤は、補償は惜しまない。
 あるときは酸欠で、呼吸もままならず、ランプの火も消えてしまう。地表から通風口を掘るが、それだけで1年を費やしてしまう。

 2年の計画が遅れに遅れ、資金は底をついてしまう。工藤は金策に走り回るが、さすがにこのたびは、町の者も工藤と目を合わせぬように歩く始末で、誰も狂人のごとき男の話は聞こうともしない。 それでもなんとか工事を進め、ついに東西のトンネルの出会うときが来た。これですべての苦労が報われる。しかし、最後の槌音とともに現れたものは、1.3mの垂直の段差だった。しかも下流の方が高い。これでは水は流れない。

 現場監督の中野留八は、怒りのやり場のない作業員たちに殺されそうになった。しかし、当時の最新技術をもってしても、あり得る失敗だった。
 工藤轍郎という男が慌てたり怒ったりするところを、これまで誰も見たことがなかったという。しかし、この時ばかりは、その顔から血の気が失せた。トンネル工事の失敗は、全体の疏水計画の失敗を意味した。自前の資金はもうない。トンネル不通とあっては、借り入れる当てもない。加えて、日露戦争に人員を取られ、人夫も集まらない。さらに悪いことには、天候不順による天明以来の大凶作に襲われていた。そして、戦争資金による大インフレが始まった。四方を塞がれ八方を囲まれ、ついに工藤轍郎は力の限界を迎えた。

奈里多究星作・工藤轍郎 奈里多究星氏のアトリエ兼展示場は、工藤の開墾地にある。

奈里多究星作・工藤轍郎 奈里多究星氏のアトリエ兼展示場は、工藤の開墾地にある。

 しかし、私心なき者を天は祐けるという。
 たまたま隣町・野辺地の大富豪、野村治三郎が七戸を訪れた。野村は、藩政時代から廻船問屋で財をなした東北有数の富豪で、また代々の篤志家でもあった。工藤の苦境を聞き、公益のためにと、当時としてはとてつもない三千円という大金を用立てた。無担保無保証であったという。

 工藤は再奮し、右腕と頼む中野留八を励まし、再び強固な岩盤に立ち向かった。その不屈の姿と事業の公共性をあらためて考え、七戸の青年たちも共感した。彼らの組織する貯蓄組合から、さらに千円の融資がなされた。

努めなば、なに劣るらん

トンネル出口 明治37(1904)年、当初計画の2倍である4年の歳月を経て、遂に疎水工事は成った。工藤の開墾地は栄え、工藤轍郎は数々の栄誉に浴した。設立に尽力した奥羽種畜牧場に皇太子殿下(後の大正天皇)をお迎えし、拝謁がかない、金杯を賜った。

 当時の政界の大立者、尾崎行雄から、工藤轍郎のもとへ手紙が来た。
「貴下も業既に成るそろそろ政界に出馬しては如何だ時は今だ」と書いてあった。夢想 家の工藤である。中原に鹿を追う夢もあったに違いない。実は落選したが、かつて国会議員に立候補したこともある。しかし、工藤にはまだ仕事が残っていた。 「田畑耕す私に何の野心のあるものか」と返信した。
尾崎からは即座に「偽るな」と三文字だけ書かれた手紙が戻ってきた。工藤はそれを見て、恥じ入るように笑った。

 工藤轍郎の最後の仕事とは、自ら開拓し、小作を集め、生活を保障し、教育を施し育て上げた工藤家農会を解放することだった。小作人に開拓地を分割し、与えることだったのだ。そのために、今少し整備と教育が必要だった。
 まだ、板の間に寝ていた。

 「俺の子孫はどうなっても、起こしたこの土地だけは万世動くことはない。もう俺が尽くすだけのことは尽くした」
没する三日前、工藤轍郎はこう言った。
 せっかく開いたこの土地を、子孫に譲るだけなら、工藤家の家運にかかってしまう。耕作地は、それを耕す者がいてこそ耕作地であり続ける。むしろ小作農家に分け与えて自立させてこそ、この土地は真に豊かであり続けるのだ。
 昭和2(1927)年の初春を迎えたばかりの頃であった。

 没後、妻のきよをはじめとする遺族たちは、轍郎の遺言に従って土地を分割した。戦時のことで時間はかかったが、資金を準備して工藤家農会を解放し、自家の小作農を、自作農に自立せしめた。

 後の人々は、工藤の功績を顕彰し、工藤家農会の事務所であり、工藤が起居した田家(作業小屋)のあった荒屋平・一の森に、工藤の象徴であった長いひげにちなみ、「ひげ塚公園」を設立した。

 大正7(1918)年、世間での米騒動をよそに、工藤家農会では開墾祝賀会を開いていた。その宴で、工藤轍郎は祝儀に自作の歌を染めた手拭いを配った。

 「努めなば天の恵みや地の利にも なに劣るらん人の力は」

<了>

ひげ塚

本稿は、史実をもとに、読み物として構成いたしました。

【主たる参考文献】

七戸町史(七戸町,1985)
七戸近世史(鷹山雅春 七戸近世史刊行會,1949)
上北郡乃栞(武田義信 北星社,1912)
東奥の偉人 工藤轍郎翁 (濱中末吉 編 発行年不詳)
工藤農場開拓と解放の概略 (盛田達三 発行年不詳)
工藤轍郎年譜 (盛田達三 発行年不詳)

(文責:玉手 孝尚)

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