歴史散歩

新渡戸 傳(にとべ つとう)

新渡戸傳と従者 写真提供:十和田市立新渡戸記念館

新渡戸傳と従者
写真提供:十和田市立新渡戸記念館

1793(寛政5年)~1871(明治4年)
岩手県花巻生まれ。
南部藩士から商人へ、そして再び武士となり、新田開拓の専門家として活躍。
もっとも大きな開拓事業に、三本木(現在の 十和田市周辺)開拓がある。
また、南部藩勘定奉行、七戸藩大参事をつとめ、政治家としても大いに活躍。
「武士道」を著し、国際社会での日本の位置づけを作り上げた新渡戸稲造の祖父。

父の放逐

 1814年、ペリーの来航よりも40年ほど前。
日本では徳川11代将軍家斉の時代、江戸では町人文化が華やかに発展し、誰もがこの世がこのまま続くと信じていた時代だった。
 しかし、時代の荒波は確実に押し寄せていた。ゴローニン事件に象徴されるロシアとの関係悪化に伴い、幕府は蝦夷地(北海道)を直轄地とし、対露防衛の任 を、南部藩ら奥州諸藩に命じていた。南部藩は、逼迫していた。
 新渡戸傳の父、維民(これたみ)は、南部藩で上杉流兵法師範をつとめていた。花巻の在所から盛岡まで、歩いて登城するという気骨の人であったが、讒訴を受 け、川内(現在の青森県むつ市)に放逐される。
新渡戸傳はこのとき27歳。文武に秀で、これからを嘱望されていた。妻には第一子(後の新渡戸十次郎)が生まれたばかりであった。
 傳は、自身は咎を受けてはいなかったが、父を養うため、川内へ同行する。盛岡から見た川内は、同じ藩領でありながら、全くの辺地という認識であった。当時 は「寛政異学の禁」に象徴される朱子学全盛の時代。主君への忠より父への孝をとった傳の思想は、当時から違っていたことがうかがえる。

商人への道

 未知の土地で、しかも収入が途絶した新渡戸家は、当然ながら困窮した。傳は父子三代を養うため、商人として生きることを決意す る。最初は海岸に漂着する海藻を拾って売ったり古布を商ったり、やがて日用品を商う。名は、号の「太素」からとって、「素六」と改める。

 やがて傳は、恐山山地の豊富な森林資源に着目する。高級建材のヒバをはじめとする宝の山で ある。これを伐りだし、野辺地の港から京や江戸へ出荷する。材木商として成長し、川内のみならず、十和田山(十和田湖周辺)の木材も伐りだして販売した。 文政年間の江戸の大火では、莫大な収益を上げ、有数の大商人の仲間入りをした。

帰参

上北郡略図 (大正元年)

上北郡略図 (大正元年)

 父維民はすでに名誉回復し、花巻に帰っていたが、傳は商人を続けた。冷徹とさえ言われる合理主義的性格を持ち、斬新な発想 と旺盛な好奇心で、次々と新しい知識と技術を身につけていった。特に土木・治水の技術は、諸国を巡って古来から最新までの技術を吸収し、現場で検証した。十和田湖から奥入瀬川を使って八戸まで(約70km)材木を流す事業には、様々な河川改修のテクニックが用いられた。奥入瀬川の 流路、三本木原台地は、常に傳の目の前にあった。
 また、山を拓く事業は、そこに働く人々の新しい村を建設することでもあった。

 天保の大飢饉で国中が疲弊し、海外からの圧力が強まる中、傳の目は、新都市建設に向いていた。南部藩は領地こそ広いものの、広大な面積の耕作不適地 を抱え ていた。
 1837年、傳44歳の年、南部藩は傳に帰参を命じる。御山奉行、御勘定奉行と引き立てられ、開拓人生が始まる。

開拓の志

 帰参後、沼宮内(岩手県岩手町付近)開拓から始め、自身の在所である花巻周辺と、次々に新田開発を行う。
 南部藩は安政元年(1854年)「十ヶ年士の制」という厳しい政策を打ち出す。主に身分の低い武士から、身分と家禄を取り上げてしまい、10年の間に新田 開発に成功したものだけを再雇用するというものだ。もちろん、再雇用時の禄高は、自ら切り開いた新田の分だけとなる。しかし、微禄の藩士には、開拓のため の資金も技術もない。みな、こぞって新渡戸傳の門をたたいた。
 安政の時代に入り、ペリーが江戸湾に再来。江戸幕府の鎖国政策は崩れた。日本各地で大地震が発生し、甚大な被害をもたらした。国学の発達と海外の圧力で、 尊皇攘夷の嵐が吹き荒れた。日本中が騒然となる中、新渡戸傳はついに、三本木原台地の新田開発を願い出る。安政2年(1855年)、時に傳、62歳。「人 間五十年」と謡われ、平均寿命は40歳に満たない。そんな時代であった。

魔境・三本木

三本木広域地図

 10世紀、十和田火山が大噴火を起こした。さらに引き続き、北朝鮮と中国の国境に位置する世界有数の大火山、白頭山(中国名:長白山)も大噴火 を起こした。縄文以来豊かだった青森県東部は、わずか数十年の間に死の荒野と化した。
 厚く降り積もった火山灰は、雨を溜めることができない。地は乾き、井戸を掘っても水が湧かない。草木も生えることがかなわず、わずかに3本のタモノキが生 えている。ゆえに三本木と呼ばれた。現在の十和田市、六戸町、三沢市あたりである。

 遮るもののない台地に、海からの風(やませ)がまともに吹きつけ、八甲田山地から降りる冷涼な空気とぶつかり、深い霧に覆われることが多かった。

新渡戸十次郎 写真提供:十和田市立新渡戸記念館

新渡戸十次郎
写真提供:十和田市立新渡戸記念館

 当時諸国を旅した伊能忠敬や吉田松陰も、三本木の漠々たるありさまを日記にのこしている。十和田湖を源とする奥入瀬川は、台地の低いところを流れ、そこにわずかな集落があるばかりだった。
 「この台地に水を引くことができれば」
 十和田山から伐りだした木材を、奥入瀬川を使って運搬する途中、傳は考えていた。 このころからすでにアイディアはあったのかもしれない。傳は遥か上流(現在の十和田市法量)から奥入瀬川を分岐することを考え た。 岩を穿ち水を通し、不毛の台地に堰を掘り続けること5年。行政官としても才能をもつ傳は現場にだけはいられず、途中から長男十次郎が現場を引き継ぐ。 ついに疏水は通った。当時の藩主・南部利剛は、「稲生川」と名付けた。広大な魔境が、命の栄える土地へと変わった。投資した者、労役に功のあった者たちに 土地を分け与えた。引き続き十次郎が開発に当たり、傳は七戸に移り、政治家として新世界の創造にあたった。

七戸藩大参事

新渡戸七郎 写真提供:十和田市立新渡戸記念館

新渡戸七郎
写真提供:十和田市立新渡戸記念館

 三本木の未来は開けた。しかし時代は明るくはならなかった。
 南部領では、長く凶作が続いた。蝦夷地警備で疲弊した藩には、民を救う力はなかった。人が人を食い、ひとりでは道を歩けぬ、とされた時代だった。
 そこへ戊辰戦争である。奥羽越列藩同盟として、南部藩および七戸藩は官軍と戦った。そして朝敵となった。
 新渡戸傳は東京へ走った。南部氏が取りつぶされてしまう。せっかく心血注いで切り拓いた大地が新政府に取り上げられてしまう。なんとか希望を見つけた人々 を救わねばならぬ。
 傳は新政府に働きかけ、明治2年(1869年)、ついに前藩主・南部信民の名誉回復をとげ、南部信方を知藩事(領主)に据え、自身は七戸藩大参事(現在の 事実上の知事に相当)への任命を取り付ける。 七戸藩は七戸(現在の柏葉城趾)に藩庁(民政所)を置き、三本木陣屋と命名された。

 この年、傳は76歳。当時としてはかなりの長命である。長男で右腕と頼む十次郎は、2年前に47歳で病没した。しかし傳の情熱はとどまるところ はない。
 孫の七郎(十次郎の長男、新渡戸稲造の兄)とともに、新世界創造のための施策を次々と打ち出す。平安の昔より名馬を産んだこの地方の畜産振興、農地の整 備、商業基盤整備、民間資本の育成と導入、人心をまとめる寺社の建立、さらには観光施策まで、これまでの日本にない新しい町作りを行う。

我が首欲しくば

 新渡戸傳の痛快剛毅な性格を物語るエピソードがある。
 かつての青森県太平洋側は、冷涼な気候のため稲作に適さず、米本位の当時の経済においては、貧窮は常のことであった。かわりに、大豆をよく産した。
 七戸藩は、農民から大豆を買い上げ、大阪で売り捌いて換金し、農民に還元していた。傳の商人時代の才覚と人脈によるものと思われる。
 しかし、明治三年、この地方はこれまでにない大凶作に見舞われる。困窮しきった農民の間に、藩が大豆の売り上げを大きく「ピンハネ」しているというデマ ゴーグが広がる。これをきっかけに同時多発的に一揆が起こり、ついに七戸藩領全38ヶ村総一揆に膨らんだ。
 農民・漁民のみならず、一部の郷士までもが加わり、都合数百人が七戸城下に押し寄せた。
 税の減免、大豆の買上割合の引き下げ等の一揆衆の要望の中に、「新渡戸傳頂戴願」とある。一般に百姓一揆では、その当時の為政の最高責任者の命を要求す る。
 これについて、傳は、「私は天皇陛下から大参事の役を仰せつかった。藩主といえども処分はできない身だ。もし、この傳に非があるというなら、その非道の明 細を提出せよ。そうすればそれを陛下に届け出て罷免していただく」という旨の回答をしている。
 これを目撃した工藤轍郎(くどうてつお=後の上北地方近代化の父)は、こう述べている。
 「これを見たる新渡戸大参事には、自己の首は渡すべきが何にするか、一人なれば玩弄物とすべきも、かの多人数にて焼きて食するか、煮て食するかと、呵々大 笑せられたりと云う」
 我が首欲しくば、くれてやろう。しかし、こんな大人数なら、たったひとつの首を分けて食っても腹の足しにはなるまい。(無意味なことをするより、この新渡 戸を生かして国を救う仕事をさせろ)といったところであろう。
 新渡戸傳の生涯を支えた、果断で勇ましく、徹底した現実主義的な性格がこの一言からうかがえる。
 この後、傳は東京や盛岡と何度も往復して新政府とぎりぎりの折衝をし、豪商を口説き落とし、民を救う。
 翌年(明治4年)、7月14日、新政府から廃藩置県が発布され、七戸藩は消滅、青森県となった。傳はそのぎりぎりまで働きづめ、9月27日、78歳で開拓魂を閉じた。

 

本稿は、史実をもとに、読み物として構成いたしました。
詳しくは十和田市 立新渡戸記念館まで足をお運びください。

記念館館内 写真提供:十和田市立新渡戸記念館

記念館館内
写真提供:十和田市立新渡戸記念館

主たる参考文献:
十和田市・三本木開拓と新渡戸三代の歴史ガイドブック
(十和田市立新渡戸記念館・太素顕彰会,2008)
七戸町史(七戸町,1985)
大参事日記(七戸町濵中家蔵書)
三本木開拓誌(積雪地方農村経済調査所, 1944)
幕末維新期盛岡藩史料調査(東京大学史料編纂所
協力:十和田市立新渡戸記念館
(文責:玉手 孝尚)

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