街道を巡る!奥州街道 七戸版

奥州街道

江戸時代、徳川幕府は、全国交通網の整備を幕府の重要施策として、奥州街道を含む五街道を定めました。

織田信長、豊臣秀吉の設けた三十六町一里塚を制を確立し、慶長9年 (1604)日本橋を起点とし、一里ごとに一里塚を築かせ、その上に榎その他を植えさせ、旅人のための里程標としました。

七戸町には今も街道の名残が残され、一里塚や国道4号線沿いの松並木など当時の旅情を思わせる風景が現存しています。

 豆知識:奥州街道の範囲
 奥州街道は、厳密な意味では、白沢~白川間の10宿とする説、千住から白川までとする説、千住から青森まで110宿とする説、千住から箱館まで118宿とする説等諸説ある。特に白川以北においては参勤交代時に使用する目的で整備されたともいわれている。

 

 国道4号線沿いの松並木

奥州街道七戸松並木02

天間舘の一里塚

天間舘一里塚02 

蒼前平の一里塚

奥州街道(蒼前平)01 

七戸町の奥州街道

奥州街道マップ (724x1024) (2) ←クリックすると拡大します。

七戸宿から次の野辺地宿までは五里二十九町(約22.79961km)ほどでした。

七戸宿からは本道(下道)と近道(上道)があり、七戸宿と野辺地宿の間には宿駅が点在しました。街灯のない当時、宿駅は人だけでなく荷を運ぶ馬においても安全に休憩できる重要な拠点でした。

 本道の宿駅:てんまだて-長者久保

 近道の宿駅:中野-坪村-柳平-尾山

 

また七戸町内には一里塚が現存しており、中でも蒼前平の一里塚はほぼ完全な状態で現存しています。

 豆知識:一里塚
 一里塚の起源は中国にある。道の傍に一里ごとに土を盛り、槐(えんじゅ)を植え、旅人の休息がとれるようにした。日本では平泉の藤原清衡が白川から外ヶ浜まで一里ごとに卒塔婆を立てたものが最古であるという説がある。七戸町に現存している一里塚は江戸時代につくられたものである。休息の目的の他に、街灯もなく建物などの目印も少なかった当時、街道からはずれないための目印としての目的もあったといわれている。

 

街道には一里塚の他、目印として道の分岐を案内する「追分石」などが設置されていました。

 七戸に現存する分岐目印

  「追分石」…青岩寺本堂前

  「庚申碑」…中野三叉路

 

街道旅の歴史ロマンに触れながらの散策をお楽しみください♪

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